「人は一瞬の幸せのために生きる」
世界が「平和」でなければ人は幸せではなく悲しい。人皆が「幸せ」であるためには、万物が宇宙の自然界の法に添うこと、それは人の世界でも「正義」である。国や民族や個人の正義より優先する。
人は皆一瞬の幸せと平和を求めて生きる。360°の夕焼けと星空に浸れる幸せの丘はクローバーが一面に咲くところ。(名古屋市滝の水公園)
軽量椅子を携え何処へでも行けるチェアリングでも私的幸せは探せる
正義とは
人が大自然の法則に、食物連鎖に従い、捕食の限度を守り、他への慈しみの心を持って生き、自然界と人に負の影響を及ぼさないことだと考える。
戦争は殺人を正当化する最大の不正義、自然破壊も同様である。
勝った者が正義と言う従来の習慣も思想も改めよう。
平和とは
正義の結果生まれる世界である。
人間同士は慈しみ合い、そして自然を愛しむ心にある。
幸せとは
平和なくらしの中で生まれる、人それぞれの感じる喜びの想いである。
それは戦争の実態とは何かから始まる。
人は正しい原則より、自己都合、保身、出世、人事。先輩目上に逆らうと昇進や人間関係に支障をきたすという意識がある。会議でも一人が反対、慎重にと言うと、他の意見は消える。それは未来へ、変わらない日本社会の幸せへの大きな障害である。今も過去の歴史にもある、発展を妨げた元でもある。今も90歳過ぎた人物の半世紀近い冤罪の叫びが今問われている。
続いて また四国などの 穏やかで平和な風景から
日本は何処へ行っても国土の70%の山々が美くしく、水が幸せを育む。
四国へ車で行くと、先ず海といくつもの長大で白色の橋梁で結ばれる風景に出会う。四国の山並みと、各地の見事な城郭、またどこまでも奥深く続く谷底の渓流に時々穏やかな集落が現れる。
そして日本一の清流仁淀川、四万十川、四国三郎などの魅力的河川が四国山脈から発し、伝統と文化の幸せな恵をくれた。
本州から四国への橋はいつも美しい
公共物の色彩は控えめが良いが四国の海にはよく似合う
特に四国の幸せ景観は高速道でも迫り来る穏やかな山々の姿にある。
四国の城は周囲の環境と調和を図っている
四国では城もそれぞれ地域のシンボルに相応しく、周囲の景観ともに大事に整備されている。城も単独ではなく、取り巻く景観との調和がなければ意味がない。
風景は国や地域のシンボル イメージである
名古屋市も城郭国宝第一号だった名古屋城が、執拗な空爆の標的にされ消失したが、貴重な障壁画などは事前の疎開で助かり、修復の努力の末今や復元御殿の華になった。
この度の天守木造復元も、基本は明智光秀の福知山城のように、市民の「瓦一枚運動」の寄附を心の基礎に、天守閣を再建した実績に見習おう。
さらに大事なことは、城を取り巻く建築やカフェなど、城を引き立て控えめな、自然で粋なデザインとし、景観の秩序を十分配慮の上で城を阻害せず、観光や市民の安らぎのシンボルにすることが目的である。
計画中のホテルや一般建築も真面目に景観に配慮することは、その都市の評価、未来にわたるイメージとなる。
多くの日本の都市デザインに共通するが、先日の広島サミットで世界の首脳を背景にした原爆記念碑のさらに背景に、日本の平和への象徴に相応しくない建築があった。日本の国の文化程度とセンセを疑われる。世界に冠たるわが国の中世平和文化を今一度見直し、未来を。
四国丸亀城の夜景である。主役の城周辺の照明も控えめである。
一例であるが戦国同時代の公共事業である、明智光秀の亀山城、福知山城復元のように、市民の「瓦一枚運動」での寄附での再建を見習いたい。
五世紀も前の話だが、武力知略文武両道で和平を追求し、領民、家臣、兵士、妻への思いやり、領地の災害対策など、都市デザインなどにも尽くしたことが、現代において市民の瓦一枚運動にもなり、優雅な丹波亀山城、福知山城が再建された。ともすると日本では忘れがちな、心の美しさ慈しみこそ平和や幸せの原動力なのである。
光秀の思いは後世の坂本龍馬に続く。本能寺のあと光秀の坂本城落城で、十歳ほどの光秀の縁者が光秀の四国平定の協力者土佐の長宗我部に匿われ、のちに坂本城の名を引き継ぎ坂本龍馬となり、日本の行くへを、さらに光秀の本拠であった丹波城亀山城の名を冠した「亀山社中」という日本初の商社を立ち上げている。
日本は海に囲まれ70%の山地が文化を育んできた、四国はその典型
高齢の方も生き生きとして穏やかな山に見守られ暮らす風土
都市の公共デザインも四国らしいオーソドックスな平和なデザイン
今一度 前回の牧野富太郎の人や自然の幸せのために戻る
実は筆者の前回提示した画像が、人の姿を避けて自然に見えるものであったことの反省である。
読者から、日本ではこんなガラガラな施設はすぐに消えてしまうよ、と心配のご意見を頂いたからです。
巻末の前回のリンク記事をご覧いただき、なぜ日本人より多くの外国の人達が、辺鄙な変哲もない不便な四国の植物園に十数倍もの人達が来るのであろうか。韓国や中国や東南アジアからインドからアメリカから、世界が向かう未来の流動的なパワー、元気な民族の栄えるグローバルサウス心の一環を見る思いである。日本の停滞、衰退をもっと元気付けたい。
熱心な外国からの見学者が暑さを避け早朝から内藤廣設計の建築空間で一休み
高知には他にもこの植物園と同様のユニークな思想での「高知市みどり課わんぱーくこうちアニマルランド」という環境エンリッチメント動物公園があり、これも日本でトップの評価と人気という。
未来は、天空海大地の風土と伝統の 環境エンリッチメントにある。
これは自然界は言うに及ばず、政治・経済・科学技術の取り組むべき目的であり生命の本質、人間の本質である。それは心の文明への入り口である。
今の日本は世界から取り残されることが進行中である。それは目先の利と機能に特化し、総合的ビジョンのない政治も経済も教育も商業も製造技術も少子化も子育ても高齢化も、賑やかなのはスポーツとアニメと娯楽とショッピングなど表面は派手だが、本質はいかにも世界レベルから低い安逸な方向に流れている。それを日本人は気づきながら戸惑い、実践しない体質にある。
「伝統文化を歴史を伝説を忘れた民は滅びる」
と歴史家トインビーが言ったように記憶している。それらは今過疎と衰退に悩む日本の、本物の平和と幸せのもとは地方にこそあり。さらに都市でも上面の観光や名物でなどでく、前述の植物園、動物園で高知が取り組んできたような、風土天空海大地にある本物を生かすことが、長い目で見た日本の未来の姿であろう。事実はすでに示されて始まっている。
筆者らの関わる国土から都市、日常環境においても、物事が部分的には連携はあるにしても、縦割りの習慣を超えられず、ビジョンが見えて来ない。
国のトップが現状に興味がないのか、他先進国のように全てが全体と部分に至るまでの思想が見えるようでなければ、少子化も、空き家も、高齢化も、これらは目先の些細なことでなく、あらゆる未来の全てを含んだ幸せの元であり、現状の戦争などにこだわるのではでなく、それを超えた地球の気候変動とも密接であり、省庁全てが関わり統括する外国のエリート集団に匹敵する本物のシンクタンクがなければ、未来はて暗しであろう。
「手のひらから宇宙まで」スティーブン ジョブズ氏に学ぶ
ほんの目先にある小さなことから未来が見えることもある。
「手のひらから宇宙まで」のような雄大なひらめきを実践した事例がある。日本人の身近な幸せ觀の一つである禅や日本の中世の伝統文化がある。
その深い精神に惹かれ、AI時代の先駆的なMacのデザイン思想を現代産業に活かし、成功したスティーブン ジョブズ氏の存在は大きい。
日本の人の手と職人・アーティストの作った形のその温もりは、何を考えていたのか知りたいと言う。凡ゆることを抜きにしても、物質文明と心・精神との融合の例と思う。
日本の伝統の工芸は、筆者の手元にある日常使いの普通の器でさえどこか平和で心休まる。ジョブズ氏の言う丸みと手触りからくる深い感触がある。
日本人の英雄代表 新渡戸稲造に学ぶ平和と幸せ
国内であげれば、熾烈で果てしない人同士の殺し合いの戦国の世の、非情な欲望の信長と、和平追求の光秀の確執のような時代を経て、日本の近代の世界において国際連盟から依頼され、一触即発のオーランド紛争を平和裡に治めた日本人がいた。
世界で「武士道」の著者で知られる、新渡戸稲造という日本を代表する国際人がとても好きである。
日本人が世界で、国内で出来た大仕事以外にも、今の世にその役割りを国内でも世界各地でも1人静かに活動している人達がおいでになる。
それを今後の大河ドラマなどで年間三人くらいに分けて扱うくらいの度量を、たとえ娯楽でもアニメでも人の命を粗末にする好戦的なストーリーの影響は大きく、これからは多くの人の命を奪ったり、海外侵攻した人物を英雄と讃えるのはもうやめよう。
心の時代に向かって努力を惜しまない本当の英雄を讃えよう。そこにはとても困難な問題を解く、平和と幸せがわかりやすく親しみ賛同できるキーワードがあると思う。
心の時代とは、「幸せ、平和、正義」の筆者の言う原則で、一度解りあえたなら、共有する心が芽生えれば、多少のわだかまりはさて置いて争わず、快く微笑み物事が進むことで、先ず心が幸せになるでしょう。
AIは人間の欲望だけでなく、いや叶わぬ究極の欲望「幸せ 平和 正義」のことに必死に取り組む人材の育成を期待する。
穏やかで優しい日本の風景に相応しい未来に向けて・・・
ZIPANG-7 TOKIO 2020 デザイン・色彩実践講座 四国 8−3「英雄とは自然を人を愛する人のこと」 ・・・ 【寄稿文】一舟・光秀
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/45909639
続く・・・
寄稿文 一舟・光秀(林 英光)
環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
香川県 東かがわ市 全景 空撮 青い海にどこまでも続く海岸線・・・
香川県 東かがわ市の概要
平成15年4月1日に引田町・白鳥町・大内町の3町が合併して、東かがわ市が誕生しました。
東かがわ市は、香川県の東の端で徳島県鳴門市と接しています。
地場産業の手袋生産は、伝統産業であり、はまち養殖の発祥地、そして有名な製薬や和三盆糖などの伝統を今なお受け継ぐ、伝統と文化、自然環境豊かな市です。
地勢
東かがわ市は、香川県の東端に位置しています。
東南は東西に連なる阿讃山脈によって徳島県に接し、西はさぬき市に隣接し、東北は国立公園瀬戸内海播磨灘に臨み、高松市と徳島市のほぼ中間に位置する自然環境に恵まれた地域です。
瀬戸内海に注ぐ馬宿川、小海川、新川、湊川、与田川、番屋川などの流域に平野部が開け、市街地と田園地域を形成しています。気候は、比較的晴天の日が多く降水量が少ない瀬戸内海特有の温暖で穏やかな気候です。
岡山 吉備津神社
四道将軍
四道将軍(しどうしょうぐん)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、崇神天皇(3~4世紀)の命を受け、地方の勢力平定の為、4名の将軍を夫々異なる地方道へと向かわせた。
以下4名の将軍とは先ず大彦命(おおびこのみこと)と武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)は父子の関係で父親は北陸道、子の武淳川別命は東海道を担当し北上した。
また、吉備津彦命(きびつひこのみこと)は西道(山陽)の平定、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)は丹波国(山陰)の平定を担当した。
※3 阿倍比羅夫 (アベノヒラフ 生没年不詳)は、7世紀中期(飛鳥時代)の日本の将軍。氏姓は阿倍引田臣。冠位は大錦上。越国守・後将軍・大宰帥を歴任した。斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北へ航海して蝦夷を服属させ、諸説あり。北海道あるいは樺太の粛慎(ツングース族)と交戦した。現在の安倍晋三首相は自らこの安倍貞任の末裔であると??東北遊説にて名乗りました。さて、前掲の比羅夫と貞任の関係は??・・・
藤原氏系図
そこで東讃引田に八幡神がどうして鎮座せられているのであろうか。この社八幡宮であれば、之より祭神は応神天皇であるはずである。
「大川郡誌」を読んでみると、「引田八幡宮、一説 元引田神社」といって、孝元天皇の皇子大彦命を祀ったとある。果してそうであろうか。そこまで未だ詮索を尽していないが、もしもかりに、そうであったとするなら、佐渡の国の引田部の神社の祭神説と一致する。しかしながら、一方引田部族の祖神が大国主神ということと大彦命ということについて、一致点が見出されなくなる。
(詳細は本文にて・・・)
日本武尊の白鳥伝説地
白鳥神社(東かがわ市)
香川県 東かがわ市 白鳥神社 拝殿
由緒
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は人皇(ジンコウ)十二代 景行(ケイコウ)天皇の皇子に在らせられ、勅命に依りて九州中国を、その後東国を征定し、帰途の途次、近江国の伊吹山にて病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野(のぼの)に至り病篤あつく、終に亡くなる。
実に、景行天皇四十一年なり、天皇その功をたたえ、武部を定め群臣に命じその地に山陵を造り厚く葬る。群臣入棺し奉まつりしに、神霊白鶴に化し西方に飛び去る、棺内にはただ衣冠のみ空く在す、その白鶴は大和国琴弾原に、また飛て河内国旧市の邑に至りまた更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止りる。よってこの所に神陵を建てさせる。
成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王(カングシオウ)をして日本武尊の御子、武皷王(タケミカツチノオウ)に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる(武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)。
日本武尊の御子 仲哀(チュウアイ)天皇の時代神籬(ひもろぎ)を建て封戸を寄らせる。今の神社即ちその御跡である。
その後一盛一衰あるが、武家は弓矢の神となし崇敬深い。寛文4年讃岐守高松藩祖松平頼重(ヨリシゲ)侯こうおおいにその規模を拡め、社殿の修築をなし、領地をさき神領に寄し、幕府の朱印地に改めた。明治五年県社に列せられ現在に及ぶ。
(詳細は本文にて・・・)
白鳥神社 秋季大祭
虎頭の舞
虎頭の舞は、白鳥神社秋祭の渡御にお供する獅子舞の一種であります。
江戸時代、近松の歌舞伎「国性爺合戦」を取り入れ、少年の和唐内が虎を退治する趣向で、県下でも数少ない舞になります。 無形文化財に指定。
ZIPANG-4 TOKIO 2020東かがわ市~美しい日本の伝統・伝説の地~ 日本の精神文化と国土の美しさ 再発見!(その1)~白鳥神社~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9323085
鹿島大鳥居竣工祭 蟇目の儀
鹿島神宮について
鹿島神宮は、日本建国・武道の神様である「武甕槌大神」を御祭神とする、神武天皇元年創建の由緒ある神社である。
御由緒・御祭神
鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神」は、神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。
鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼる。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われた。この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられている。その後、古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣された。さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われた。そして中世~近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになった。
現在の社殿は徳川二代将軍の秀忠により、また奥宮は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納されたもので、いずれも重要文化財に指定されている。
鹿島神宮の例祭は毎年9月1日に行われるが、うち6年に一度は天皇陛下の御使である勅使が派遣される勅祭となり、さらにそのうち2回に1回、すなわち12年に一度の午年には、水上の一大祭典である御船祭も斎行される。
宝物
鹿島神宮はその長い歴史故、藤原摂関家や徳川将軍家を始めとする武家の信仰が篤く、奉納いただいた宝物類を多く所蔵しており、宝物館では国宝、重要文化財、茨城県指定文化財、その他御神宝の数々を収蔵展示している。
所蔵品としては、国宝であり日本最古最大の直刀(金銅黒漆平文拵・附刀唐櫃)をはじめ、梅竹蒔絵鞍(重要文化財)、太刀(銘景安)、古瀬戸狛犬、銅印、木造狛犬、黒漆螺鈿蒔絵台(県指定文化財)等古くから伝わる宝物のみならず、神社に縁のある雪村筆「百馬図」、横山大観筆「鹿島洋朝瞰図」、軍艦「鹿島」パネルも展示されている。
なお、直刀の実物大レプリカも展示しているので、実際に手を触れて重量や長さを体感することができる。
神剣「師霊剣」。奈良時代(初~中期)の「常陸国風土記」によると、約1300年前につくられたものと記述がある。 鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)の神剣として神宮の内陣深く秘められてきた神宝。刀身の長さは223.5cmある。
巌流島(船島)で宮本武蔵と決闘した、秘剣燕返しをあみだした佐々木小次郎の名刀・関の孫六(通称・物干し竿)でさえ2メートルなので、その長大さがわかる。
鹿島神宮 大鳥居
神々の通り道の東門
鹿島神宮は、皇居ー明治神宮ー富士山ー伊勢神宮ー吉野山ー高野山ー剣山ー高千穂へと一直線に続く聖地であり「神々の通り道の東門」にあたる。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「すべての始まりの地 『鹿島神宮』紀元前660年の創建(前編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2468656
鹿島神宮は、日本建国・武道の神様「武甕槌大神」を御祭神とする、神武天皇元年創建の由緒ある神社である。
鹿島神宮 国宝・楼門
鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神」は、神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。
現在の社殿は徳川二代将軍の秀忠により、また奥宮は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納されたもので、いずれも重要文化財に指定されている。
祭典・行事
鹿島神宮では年間90を超える祭儀が行われ、祭頭祭や白馬祭、流鏑馬など特徴のあるお祭りも数多く行われる。
鹿島神宮「御船祭」
御船祭の由緒
常陸国風土記に「毎年七月に舟を造りて津宮に奉納する」とあるように、鹿島の神と船との関係は創建時代にまで遡る。
東路の果てに位置する鹿島はその昔、外海の太平洋と西の内海の中で船団の航行によって栄えた古代東国文化の要衝でした。御船祭は、東海を扼する鹿島に鎮座して関東の開拓鎮撫に当たる鹿島の大神を奉ずる当時の人々の足跡を伝える祭であり、およそ1700年前の応神天皇の御代より伝わる鹿島神宮最大の祭典なのです。
12年に一度の午年に斎行されるのは、十二支が一巡すること、また午は方角では南、時刻では正午と陽性が最も盛んであることから来ています。この大祭にはあらゆる邪気と不景気を祓う一陽来復の願いが込められている。
9月3日午前10時には行宮祭を斎行、そして午後3時には御神輿を本宮に還御する還幸祭が行われ、12年に一度の大祭は終りを告げる。
この他、大祭を盛り上げるべく様々な奉祝行事が行われるほか、祭り期間中町内では山車が引き出され祭りを彩る。
前回の御船祭は平成26年9月1日から3日にかけて、天皇陛下の御遣いである勅使をお迎えしての例祭に続き、鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神が約3,000人の大行列・約120艘の大船団と共に巡幸して香取神宮の御祭神である経津主大神と水上で出会う、12年に一度の御船祭が斎行されました。
御船祭最初の御座船清祓式から約1週間後には鹿島神宮奥参道において鹿嶋流騁射(うまゆみ)が行われる。
次回の御船祭は2026年の斉行予定です。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「鹿島神宮 『御船祭』12年に一度の午年に 水上の一大祭典 斎行(後編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2475332
隠岐神社(海士町)
夜には予約制の「隠岐神社まいり」を開催しており、昼間とは違った隠岐神社を楽しむことができる。(※2名以上の実施。)
奈良時代に高僧行基がこの地を訪れた際に、木蔭の洞窟から流れ出る湧き水に霊気を感じ、聖観音菩薩を祀る清水寺(せいすいじ)を建立した。そして、この湧水に「天から授かった天恵の水」という意味で「天川」と名づけたと言い伝えられる。
海士町 天川の水
湧水量は1日約400トンに上ると言われ、豊富な湧き水は地域住民の生活用水や農業用水として長く重宝されてきた。常に清らかで澄んだ水が湧き出す天川であるが、地元の人々による水質保全活動により今日もその透明度が保たれている。
対馬暖流の影響を受けた豊かな海と、名水百選(天川の水)に選ばれた豊富な湧水に恵まれ、自給自足のできる半農半漁の島。
平城京跡から海士町の「干しアワビ」等が献上されていたことを示す木簡が発掘されるなど、古くから海産物の宝庫として御食つ國に位置づけられていた。
奈良時代から遠流の島として遣唐副使の小野篁をはじめ、承久の乱(1221年)に敗れ、ご配流の身となられた後鳥羽上皇は、在島17年余この島で生涯を終えられ、島民の畏敬の念はいまなお深い。
明治の文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、隠岐旅行の際「菱浦港」を最も気に入り8日間も滞在した。・・・小説「知られざる日本の面影~伯耆から隠岐へ」の中に著している。
太刀(菊紋)名物 菊一文字 徳川美術館 所蔵
茎に菊紋のある太刀は「菊御作(きくごさく)」と呼ばれ、後鳥羽上皇の御作と伝えられる。後鳥羽上皇は、いわゆる御番鍛冶(ごばんかじ)を定めて各地から名工を招聘し、月番で作刀させたうえ、自らも鍛造したという。本刀は菊紋がわずかに確認でき、備前国一文字風であるため「菊一文字」と呼ばれる。寛永2年(1625)に2代将軍秀忠三男の忠長から尾張家初代義直が譲り受けた。その後、尾張家5代五郎太(1711〜13)の時代に父・吉通 の建中寺廟に奉納され、明治時代に尾張家へ戻された。
【鎌倉時代 13世紀】刃長72.5 反り2.3 茎長13.3
後鳥羽院は刀剣の文化にも関わりが深いことで知られている。刀剣に情熱を注がれた理由として、三種の神器の一つ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」にまつわるエピソードが有名である。
後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)
12世紀における院政の展開、1180年代の内乱、そして東国での鎌倉幕府の樹立を経て、13世紀初頭には、後鳥羽上皇が列島を統べる体制が成立する。後鳥羽上皇は、勅撰集『新古今和歌集』に結実する和歌をはじめとして、多芸多能の帝王だった。
しかし承久3年(1221)、前代未聞の事件「承久の乱」が起こり、後鳥羽上皇が北条氏率いる鎌倉御家人に合戦で敗れ、隠岐に流された。この承久の乱を機に、鎌倉幕府の優位のもとで公家と武家が並存する時代となったが、やがてその体制にも終止符が打たれ、南北朝の内乱が展開することとなった。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-5 TOKIO 2020後鳥羽院に由緒がある伝承と文化「隠岐諸島の一つ海士町(あまちょう)[1]」
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18174785
後鳥羽上皇行在所跡(旧源福寺)
承久3年、後鳥羽上皇が隠岐に御遷幸された時、源福寺内を行宮とされ19年間お住みになられた。後鳥羽上皇は諸芸に長じられ、特に和歌を御読みになり遠島百首等の歌集を残された。
源福寺は、明治の廃仏毀釈で取り壊されたが、院の御製にある「勝田池」と「礎石」が当時を物語っている。源福寺は、別の場所に建て替えられた。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-5 TOKIO 2020後鳥羽院に由緒がある伝承と文化「自立・挑戦・交流×継承・団結 〜心ひとつに!」みんなでしゃばる(引っ張る)島づくり〜[2]
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18534864
神々の島「隠岐」
玉若酢命神社
「延喜式」に載るこの神社は、水若酢神社とともに島後では由緒ある神社であります。
当社は、隠岐国の総社で、惣社大明神ともよばれた。
本殿は、隠岐にある神社の最古のもので、造営は寛政5年(1793年)で、隠岐造りといわれる建築様式。 屋根は、茅葺き、千木、堅魚木、のうえに雀踊(すずめおどり)とよぶ横木がおかれ、素朴ななかににも威厳のある建造物であります。
毎年6月5日に隠岐島後三大祭りの一つ「御霊会風流(ごれえふりゅう)」が行われます。
隠岐国一宮「水若酢神社(みずわかすじんじゃ)」
延喜式に名神大社と記された、隠岐國の一宮である「水若酢神社」。
祀られている水若酢命(ミズワカスノミコト)は、隠岐の国土開発と日本海鎮護をされた神様だと伝えられています。
創建の由緒は未詳ですが、社伝によると人徳天皇の時代に創建されたと言われています。
水若酢神社 流鏑馬
本殿は隠岐造りと呼ばれる建築様式で、国の重要文化財に指定されています。
隔年の5月3日に開催される例大祭は島後の三大祭りとしても知られており、日本古来の山車が曳かれ、流鏑馬などの神事が行われます。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 神々の島「隠岐」& 後鳥羽院「海士町(あまちょう)」総集編[3]
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/19153963
石見神楽 恵比須と美保神社
石見神楽
日本神話を題材に、独特の哀愁あふれる笛の音、活気溢れる太鼓囃子に合わせて、金糸銀糸を織り込んだ豪華絢爛な衣裳と表情豊かな面を身につけて舞う石見神楽は、島根県西部の石見地方に古くから伝わる伝統芸能です。
本号ご紹介の演目は「恵比須」です
石見神楽「恵比寿」 鯛をおびき寄せるため撒き餌のアメを観客に投げる
恵比寿の正式なストーリーは、旅人が美保神社を訪ね、恵比須である事代主命のいわれを宮司より聞く。旅人の幻想の中で恵比須が鯛釣りをする姿を見るという、とっても風流な神楽です。
美保神社(みほじんじゃ)とは
三穂姫命(みほつひめのみこと)と事代主命(えびす様)の二神を祀る、
比翼大社造りの国の重要文化財
国重要文化財 美保神社本殿
『出雲国風土記』や『延喜式』にみえる古社の本殿で、二棟の前室付大社造を相の間で連結し、正面全体に階隠の庇を設けた比翼大社造の特異な形式をもつ。
この地方に分布する同形式の遺構のうち、最も規模が大きくて建立年代が古く、大社造の変形として重要な位置を占めています。
美保神社 本殿 正面図
美保神社本殿 断面図
事代主命(えびす様)の総本宮で、母神である美穂津姫命と共にお祀りしてある古大社。
本殿は文化10年吉川広家が征韓戦捷の奉賽として造営したものであり、本殿は二殿連棟の特殊な形式で美保造りまたは比翼大社造りといって、国の有形文化財に指定されています。
また、船庫には諸手船、そりこ船が展示されており、奉納鳴物数百点と共に国の重要民俗資料となっています。
御祭神は海上安全、大漁満足、五穀豊穣、商売繁盛の守り神としてその崇敬は全国的にあつい。出雲大社のみの参詣は「片参り」と昔からいわれ、出雲大社参詣の際は必ず美保神社へもお参りする習わしとなっていました。
毎年4月7日に行われる青柴垣神事は国の民俗資料に指定を受けています。 また、12月3日に行われる諸手船神事も海上神事としては全国的にもめずらしく、各地から見物客がつめかけます。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 ~ なつかしの国 石見 ~(4)石見神楽 恵比須と美保神社
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7809163
出雲大社 御本殿・観祭楼
八雲立つ出雲の国が神の国・神話の国として知られていますのは、神々をおまつりする古い神社が、今日も至る処に鎮座しているからです。そして、その中心が大国主大神様をおまつりする出雲大社です。
大国主大神様は、広く“だいこくさま”として慕われ、日本全国多くの地域でおまつりされています。大神さまがそれぞれの地域でお示しになられた様々な御神徳は数多くの御神名によって称えられております。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-2 TOKIO 2020「 八雲立つ出雲の国が神の国 ~出雲大社~ 八百萬の神々と共に 」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5479758
出雲大社 神楽殿
徳川幕府政権の確立は3代将軍徳川家光にあたりますが、彼にはなかなか世継ぎの誕生がありませんでした。そこで有名な春日局は松江藩に代参を命じ世継誕生を大国主大神様に祈願しました。すると翌年、後に4代将軍となる家綱が誕生し、家綱は大国主大神様の〝申し子〟と言われました。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~ 出雲大社『遷宮渡し』~「さらにより良き御遷宮をの思い 平成31年3月までに…新元号、4月1日に事前公表へ 」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5486470
出雲大社 神在祭
全国の神々が出雲大社にお集いになられる“出雲神在”。
出雲大社の西方約1キロの稲佐の浜では全国の神々をお迎えする古式豊かな「神迎(かみむかえ)神事」が執り行われます。この神秘の神事の後、ご到着された神々は御使神「龍蛇(りゅうじゃ)神」さまをご先導として出雲大社まで御神幸なされます。そして、神楽殿にて奉迎の神迎祭がお仕えされます。
ZIPANG-4 TOKIO 2020 神々集う出雲大社 ‘‘神在月” のお祭りとは〜〝しあわせの御縁〟を結ぶ神々のサミット〜
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7262895
斎王とは?
斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まる。
以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝える。
制度が確立して以降の斎王は、卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢へと赴いた。その任が解かれるのは、主に天皇が代わったときのみ。年に三度、伊勢神宮に赴く以外は、一年のほとんどを斎宮で過ごし、神々を祀る日々を送っていた。また、神に仕える身ゆえに恋をすることも許されず、伝説に語られる斎王の中には己の命を絶って身の潔白を証明した哀しい斎王や、恋ゆえに斎王を解任されたり、恋人と引き裂かれたりした斎王もいたのである…。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020 「特別編 斎王~明和町より~伝説と歴史が伝える歴代の斎王74名について」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3020519
対馬 古代米「赤米畑」
対馬(つしま)は、九州本土と朝鮮半島の間に浮かぶ面積約710平方km(属島含む)の大きな島ですが、面積の89%は山地であり、全島が岩がちで、農耕地は1%ほどしかありません。朝鮮半島までの距離は49.5kmしかなく、国境の島と称されています。
魏志倭人伝に「南北に市糴(してき。米を買う=交易を行う)す」と描写された対馬の海洋民は、島の中央に広がる浅茅湾を利用しつつ、航海術を駆使し、大陸と日本列島の間を移動していました。
その活動が日本列島に金属器・文字・仏教などの大陸文化を伝えましたが、対馬海峡は危険に満ちており、対馬に海神信仰が定着したのもごく自然な成り行きだったのでしょう。また、政祭一致の時代、中央の政治にも大きな影響を与えた古代の占いの技術・亀卜(きぼく)も早くから伝わっていました。
対馬 厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)
【祭神】 神功皇后 應神天皇 仲哀天皇 姫大神 武内宿禰
武神・神功(じんぐう)皇后
明治14年初めてのお札 モデルとなった神功皇后 編集局イメージ
【日本神話】 神功皇后
古事記に登場する最強の女性といえば「神功皇后」の名が挙がります。 シャーマン(巫女)の能力があり、「西にある金銀財宝が満ちる国を与える」との住吉三神(前号)の神託を受け、朝鮮半島の新羅(しらぎ)征服を、夫である14代仲哀(ちゅうあい)天皇に進言しますが、仲哀天皇は神託を疑い、神の怒りにより死を迎えます。
皇后は「皇后の胎内の男子が今後国を治める」との神託を受け、軍船を整えて海を渡ると、魚たちが船を持ちあげ、追い風が吹き、船と波が新羅の国土の半ばまで押し寄せました。新羅王は恐れ、戦うことなく服従を誓い、朝鮮を支配することになった、と伝えられています。
神功皇后は北部九州との縁が深く、鎮懐石で出産を遅らせ、帰国後に子を産んだ場所を「宇美」(福岡県春日郡宇美町)」と名づけたなど、一帯に皇后に由来する地名伝承が残され、神功皇后と子の応神天皇は、宇佐神宮(大分県)を総社とする全国の八幡神社に祭られています。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「武神・神功(じんぐう)皇后【寄稿文その7】 西 護」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/4031172
対馬 現在も行われている「亀卜(きぼく)」による祈祷結果(雷神社)
亀卜(きぼく)の伝承 イカツオミ
【日本神話】
神功皇后 仲哀天皇の死に際し、神功皇后は自ら祭主となり、武内宿禰(たけのうちすくね)に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を、神意を解釈する審神者(さにわ)としました。(日本書紀)
【対馬の伝承・異伝】
神功皇后の外征を支えたのは、個性的で有能な家臣たちでした。特にイ カツオミ(雷大臣)は、皇后の凱旋後に対馬に留まり、古代の占いの技術である亀卜を伝えたとされます。イカツオミはまず豆酘(つつ)に住み、次に阿連(あれ)に移り、加志(かし)で生涯を終え、加志の太祝詞神社 (番号56)横に墳墓(中世の宝篋印塔)があります。
豆酘には亀卜が残り、加志の太祝詞神社は名神大社であり、阿連は「対馬の神道」の著者・鈴木棠三から「対馬神道のエルサレム」と称されるなど、イカツオミの痕跡が色濃く残されています。名称に「雷(霹靂)」「能理刀(のりと)」がつく神社では亀卜が行われていたケースが多く、全島に分布しています。
対馬 雷神社
豆酘には、神功皇后の重臣「雷大臣」(いかつおみ)をまつる雷神社があります。古代の占いの技術「亀卜」(きぼく)を対馬に伝えたとされる人物で、厳原町阿連(あれ)の雷命神社、美津島町加志の太祝詞神社の祭神でもあります。
雷神社(いかづちじんじゃ)
【祭神】 雷大臣命
【所在地】 長崎県対馬市厳原町豆酘2852番地
コラム 占いの変遷
古代において、作物の豊凶や天変地異、病気の蔓延等は、統治者の重要な関心事でした。場合によっては、統治者がその責任を負い、処刑されることもあったのです。
日本では、古くから鹿の肩骨を焼いて占う太占(ふとまに)が行われていました が、対馬には5世紀頃、亀の甲羅を用いる亀卜が大陸から伝来していたようです。
律令時代(7世紀後半~)には、国家の吉凶を占う手法として亀卜が採用され、伊豆5人・壱岐5人・対馬10人の三国卜部(さんごくうらべ)が占いの職能集団として朝廷に仕え、重視されました。政祭一致の時代、対馬は占いのみならず、政治的な影響力も保持していたのです。
平安時代になると安倍晴明などの陰陽師(おんみょうじ)が活躍するようになり、さらに鎌倉時代になると武士が台頭し、対馬の卜部は力を失いますが、亀卜は対馬藩の公式行事として幕末まで存続しました。
ちなみに、亀卜に使うウミガメの甲羅は、阿連の大野崎沖で獲れるものが最上とされ、逆に佐護・木坂・豆酘沖のものは使わないなど、厳格なルールがあったようです。豆酘の亀卜は形を変えて現在も行われ、国の無形民俗文化財に指定されています。
ZIPANG-2 TOKIO 2020「対馬は古代から大自然そのものが信仰の対象だった!【寄稿文その8】西 護」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4843400
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