ZIPANG-7 TOKIO 2020デザイン・色彩実践講座 最終 9−2 - 心の文明への序章- 心の文明とは自然の摂理に寄り添うこと 【寄稿文】一舟・光秀


美しき風景と 偉人の生き方に学ぶ


原初には縄文の自然と一体の心、あらゆるものと生命に神がいた。弥生には八百万の神が居り、仏の教えは「生きとし生けるもの皆幸せであれ」であり、江戸期までは自然と人間の調和、人の不安と尊厳の生き方の拠り所、以前からある地蔵信仰、悲母観音 聖母マリア 奪衣婆 姥神 信仰などがあった。


それは女性の母性に還ってモノを見る、慈悲 慈しみの目で、生きるとは 人生とは また美しいとは 物事を判断すること、目の前のこと、未来のこと、全て心の文明の基本であった。


明治以降の日本人は、他国の都市を美しいと憧れて来た。実は日本にある伝統的な環境と自然の風景は、日本人が最も美しく似合う空間である。


確かに他国へ行くと何処にも自然な、建物や環境と人がしっくりと似合い、違和感なく、此処へ来たんだなあと思うドミナンスがある。そこには幸せと平和と自然の正義がある。


ベルゲンは、徹底した市民意識の高さで色彩も形もコントロール出来ている。

筆者の好きな水辺の広場に面した建物の形の統一と、強い色彩バランスとレストランや店舗から見る人々の親しむ様子と白い船と海が見える。


住宅地と集合住宅の位置と屋根や壁の色彩が一体で変化と魅力の舞台演出になっている。どこの坂道を歩いても、幸せと平和を五感で感じる都市のデザイン・色彩の典型である。


日本の場合は、木造の下見板張のエイジングの効いた地味な漁村の風景は、対照的に心に染みる静かなドミナンスがとても良い。その中で落ち着いたカフェや食堂が大人のドミナンスになり、日本への観光を呼ぶのである。つい外国を真似る軽薄な色使いではだめ。


麗しき未来は国民の市民の地味な活動の積み重ね


大部以前にはなるが、この上なく綺麗な色彩都市ベルゲンへ行った時、お前等も日本らしい自分の都市デザインを地道にやれと、文明の華が微笑み語りかけて来た。


2度目は電車と徒歩でフィヨルドに面した質素なグリーグの作曲小屋と資料館とホールを訪れた。崖下に草に覆われにひっそりと彼の妻の墓もあり、幸せと平和な風景の時間があった。グリーグの曲には日本人の感性に共鳴する静けさがある。そこには日本人女性留学生が一人働いていた。


日本にも良いと思う所やものはあるが、新しいものは何かしらスッキリしない何か、つまり心の芯になるものが抜けているのである。他国はその国らしい、その地域らしさは継承されている。日本では明治当初は和の伝統環境に、本物の洋風建築もよく似合っていたのに、その後どう言う訳なのか。占領軍に伝統や古いものを汚い物と決めつけられ、文化の根底を否定されたからだけなのだろうか?


海と山と港湾の美しいデザイン・色彩都市スオン


韓国の地方港街スオンは、海と山と港湾の雑多な商業地域と高層住宅群と背景の山と橋梁が韓国らしく都市景観デザイン・色彩のドミナンスがよく現れている例である。


隣の韓国は激烈な朝鮮戦争を潜り抜けて来た地方都市も、それらしい調和はあるのに、日本国内の神戸、横浜も戦後綺麗にはなったが、何か腑に落ちない物を何故か感じる。それは今後の日本の都市景観だけはなく、日本の未来、心の時代に向けて最大の問題であると考えている。


美しき伝統を失った国や民族は大切な心を失い滅びる


我が国の優れた伝統の造形力と技術力と、高度に磨かれた芸術的センスの総合的デザイン能力の習得を、大学も職業の現場も教育全般も大切な美しさを粗末にして来た付けを、今改めて反省し復活させる時である。


だが現在日本全国で進行中の人口減少、限界集落、空き家、消えていく麗しき伝統、建築、古民家問題は、個人では対応出来ないところまで来ており、国も自治体も関連業界も、2500年には日本は世界で最も悲惨な国になるという予測に対し、真面目に取り組む機運を工夫を、今からでも遅くはない。関連分野・領域を省庁を超えて立ち上がろう。環境で人を、幸せを、平和を、世界の望む争いのない正義を育て創ろう。


今筆者の目の前からも日本の宝が日々消えていくのを見るのは悲しく悔しい。


これは明らかに人という生き物が、長年にわたり住み利用して来た暮らしと心の歴史が、取り壊しの過程で、他人である筆者にも十分に伝わるものがある。背後に見える現代建築にはおそらくそれはないだろう。幸せとか平和も人の日常の生活の歴史にある。


ここに今破壊され消えて行く、白黒グレー自然素材色にこそ、日本人の暮らしに大切な感性の元になって来た、この上なく日本の風土に大切な色彩と素材と造形の心がある。


簡単に言うと現代日本は意識の低さが国中に蔓延している。さらに敗戦の焼け野原から立ち上る時、占領軍 GHQ から敗戦国に都市計画などはいらんと一喝され、ビジョンのない勝手で、なし崩しの街づくりや、気ままな独りよがりな建築は、今でも3・11の災害などの後でも、先回のオリンピックでもそのビジョンのない混乱した状態は続いている。


岡倉天心、新渡戸稲造、マックのスティーブ・ジョブズの言う日本の心をもっと学び、幸せと平和と正義の糧にしよう。


岡倉天心は明治の廃仏毀釈の日本の伝統美術の惨状を見て、奮起し伝統美術の保護保存に尽くした偉人。新渡戸稲造は国際連盟にて世界に武士道精神と平和に尽くした偉人。ジョブズ氏は日本の伝統美術の心を、最先端の産業界のAI 製品に取り入れた偉人。 彼らは異国の政治や文化に接し、流行でなく日本文化の真髄を大切にした人達である。


美的感性の真髄こそ人の社会性の高い美意識の基本


さらに中世の高度なわが国の伝統文化が、数百年も他国に先んじていたことは、世界の知見が認めているところであり、私たちが自国の優れた伝統を学び継承することで、世界の幸せと平和に「デザイン・色彩」を通じ美の創造に寄与することが出来る。


事実多くの世界のトッのプデザイナーや創造者たちは、日本の伝統文化からヒントを得たと言う。 経済界にも産業界にもロックフェラーや、前回紹介した Mac のジョブズ氏のように生涯に渡り日本 の工芸・美術を愛した人物は多い。


農は国の礎 日本の農家は何故世界で最も美しいのか


天空大地と調和する、風土と伝統の日本の文化の手本である、目を洗う風景をご覧下さい。


富山県砺波平野は日本の典型的な魅力のある地域である。


山際の集落と田園の存在感は、行く度に活きいきとして楽しくなるのは何故か。それは日本の自然と白黒グレーにある。


見渡す限りの砺波平野に点在する屋敷林の風景


天空と大地と人の暮らしの調和する日本人の幸せと平和な暮らしの奥の深い象徴であり、幸せな景観は平和な宇宙の正義さえ感じられる。


現代デザインを超えるなんとも明快で自信に満ちた完璧な景観デザインである。


この凄みのある品格が現代デザインに必要とされなくなった理由は、我々自身の心が浅薄になったからであろう。その基準を作ってきた理由は、チャーチル元首相の言った、「建築は人をつくる」にある。物質文明を心で制御してきた江戸期260年の平和は、明治維新で否定され、結果物質文明の究極の核兵器で失った反省も未だ不十分であることが、原点にある。


一軒の農家の屋敷林は人の暮らしの全てが揃い完結した最小単位のSDGsの城である


農業は何より総合的な職業であり、全方位に風土伝統に気を配り、物事に対処する総合職の美学で出来ているからである。


農業は観天望気で環境全体を見渡し自然と調和する人類最良の仕事。水理・土木・建築、気象、植物学、地質学、薬学、耕し、撒き、育て、収穫、加工、バイオ作業、梱包、保存、運搬、大地と水の調整、家畜飼育、育児、家事、肉体労働、計画性、販売、収支計算、天候季節で異なる作業段取り、節句の伝承飾り、近所付き合いなどである。これほど多岐にわたり実労働する職業はない。

これだけの作業をこなす、百にも及ぶ総合仕事人、多くの仕事をこなす「姓」の「百姓」と言われる所以であろう。当然風土自然、人と社会と対応融和の屋敷林の主は、生態系や四 季の様々な要素を備え、捨てる物のない最小限の SDGs の城主である。

このことが部分と全体の調和、総合的環境トータルデザインであるので心も休まり美しいのである。

古来農民の男は筋骨隆々、兵士としても大切な存在であった。常日頃から大変な力仕事量と自分で物事を判断をする総合的人間の職業は、他には命がけの海の漁師たちだけであろう。

幕末明治では、上の身分のものほど貧弱で、下働きは褐色のアポロンのような体であると、外国人女性の幕末明治の紀行文にある。


美しい空と海と山と田園は現代人の心を洗う 幸せと平和の元である


大らかな美しい景観は人の心を洗い、希望を授ける。 五島列島の海と山


飛行機の窓から瞬間雲間に遥かな富士山を見た。


陽も雲もそのダイナミックな構成の風景から、何か大事なことをやれと叫ぶように見えた。

日本中の身近なところに魅力的な環境は山ほどある。騒がしくもなく和やかな雰囲気の時と空間を見つけよう。それはささやかな希望。


宮沢賢治が好きな茅の群落はここでも幸せの風に揺れ靡く このラグーナには15年住んだ


無彩色の人けのない海岸はさざなみの音だけ、ここに幸せで平和な時間と希望も見える


そして「椰子の実」の詩


夕日の渥美半島の三河湾の渚に、思いがけなく椰子の実一つ 波に ゆられていた。感性の元、俳句、短歌、詩を作ろう、唱歌を口ずさもう。


何故か水辺は空も光も映る夕暮れ時が、特に美しく幸せになる自然現象


水に映る対象は全てが倍になる儚い幸せの世界である。


幸せと平和を願うのなら、爆発物は綺麗な花火程度にしておこう


日常の環境を日本人に相応しい平和な落ち着いた風情を環境に取り戻そう。気候変動も今の状態を努力改善しても、数万年から10万年続くと科学者はいう。それでも人類は、兵器産業という国民の税金を自由に安易に注ぎ込める物質文明最大の経済活動を必要とする、醜い欲望が。

人の命を奪う数百兆円は地球環境回復と世界平和に


今素敵な日本人 大谷翔平君に学ぶ 「幸せ 平和 宇宙の正義」の条件


今 世界で最も素晴らしいと思う日本人の 一人、大谷翔平青年の何気ない、素朴で自然な振る舞いに世界も静かに注目していると。

筆者らの少年時代の野球のイメージを振り返ると、野球といえば、でかいアメリカ人が歯を剥き出し、ぐちゃぐちゃとチューイングガムを噛み、所構わず唾を吐く恐ろしいスポーツのようであった。

我が国のスポーツは敗戦で GHQ に禁止された武道を始め、礼に始まり礼に終わる文化であ り、敗者を侮蔑するのではなく、むしろ労り、対等に一礼する日本文化である。大谷野球はそ の伝統の延長にある幸せな見本の風景である。

今物質文明から心の文明への時。生き物として、人類有史以来の幼稚な殺し合いはもう終わりにし、争うのは肉体と心のスポーツだけで良い。大谷翔平はそれを実践しているようだ。

奥深く美くしく人類の培った感性と美学の伝統に倣い、人がそれぞれ持てる五感をフルに活用し、平和と幸せの文化の洗練の競いに生きよう。


動植物に学ぶ「幸せ 平和 宇宙の正義」


生きものの争いには動植物の一定の自然のルールがあり、人の様に際限なく争い、同種を殺し喰らう生き物は稀有であるという。

動物の喧嘩は仲直りする、友達になる、テリトリーを分け合う儀式、挨拶の様であり、優劣を互いに認め、相手を滅ぼすことのないところに落ち着く。


それは「幸せ 平和 宇宙の正義」の条件である


ZIPANG-7 TOKIO 2020 デザイン・色彩実践講座 最終9-1世界が望む「幸せ 平和 正義」は 未来へのエンリッチメントデザインにある 【寄稿文】一舟・光秀
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/46353944


続く・・・


寄稿文 一舟・光秀(林 英光)



環境ディレクター
愛知県立芸術大学名誉教授
東京藝術大学卒業


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。

発行元責任者 鎹八咫烏(ZIPANG TOKIO 2020 編集局)



アーカイブ リンク記事をご覧ください。



岡倉天心が自ら設計した「六角堂」

北茨城市五浦海岸 六角堂


北茨城市の五浦海岸の岸壁すれすれにに建つ「六角堂」は岡倉天心が自ら設計しました。
天心は、岩に打ち付け砕け散る波を眺め、思索に耽ったのであろうか・・・

茨城土地家屋調査士会 制度制定70周年記念事業で、 五浦六角堂の三次元点群データを茨城大学に寄贈 ~2022年11月14日授与式を実施~


ZIPANG-6 TOKIO 2020茨城土地家屋調査士会 制度制定70周年記念事業で、岡倉天心 「五浦六角堂」三次元点群データを茨城大学に寄贈!
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/38976266



世界かんがい施設遺産

十石堀 世界かんがい施設遺産認定書


国際かんがい排水委員会(ICID)は、令和元年9月4日(水曜日)にインドネシア・バリで開催された第70回国際執行理事会において、ICID日本国内委員会が世界かんがい施設遺産候補として申請した4施設を世界かんがい施設遺産として登録することを決定しました。



十石堀の概要

十石堀は、農民自らの発意と計画により、1669年に建設された用水施設であり、用水路延長約15km、取水水門2ヶ所、分水工2ヶ所、最大取水量毎秒0.36m3、受益面積は78haです。鉄筋コンクリート三面張り水路に改修されている区間もありますが、水源から約2kmの区間は、建設後、350年が経過した現在でも建設当時の姿のまま利用されています。

十石堀が位置する北茨城市は東が太平洋に接していますが、市域の85%を山地と台地が占めているため、海岸近くまで山地と台地が迫っています。

当時、この台地上にある農地は、水源が天水のみであるため、毎年のように水不足によって農作物が収穫できないという被害を受け、農民たちは大変困窮していました。そこで、1668年に、当時の村長であった沼田主計(ぬまたかずえ)は、水不足の解消と新田の開発を目的として用水路の建設を計画し、この地域を支配する領主に願い出ました。

当時の技術水準では、水を大北川から取り入れて台地上へ送ることはできませんでした。そこで、農民らは協力し、水源を直線距離で6km、標高300mの奥深い山中にある大北川の支流に探し出し、そこから自然の地形を巧みに活用しながら、急峻な山の斜面に延長約13kmにも及ぶ用水路を建設するという当時としては革新的な計画を立案しました。計画を立案した当初、領主は、難工事が予想されたため、建設を認めませんでした。しかし、領主は、立案者である沼田主計の命を賭した決意に動かされ、建設を認めました。

工事は1668年の8月に始まり、農民らの協力によってわずか約半年後の1669年3月に完成しました。また、建設資材は農民が自分たちの山から調達し、建設費用を領主が見積った額の約10分の1に縮減することができました。

十石堀の水は、松井地区、日棚地区、粟野地区の3地区で利用されました。領主は、十石堀の建設と新田の開発に功績があったとして沼田主計を称え、開発された新田のうち、沼田主計にかかり租税を免除しました。沼田主計が租税を免除された新田の米の収穫高が約10石であったことから、建設された用水路は十石堀と呼ばれるようになりました。

この十石堀で建設された導水路「掘割」は、自然の地形が巧みに活かされ、現在も建設当時の姿のまま利用されており、その歴史的価値から北茨城市指定史跡に指定されています。

世界かんがい施設遺産 十石堀 滝の沢水門


ZIPANG-3 TOKIO 2020 国際かんがい排水委員会(ICID)「世界かんがい施設遺産候補4施設を登録決定!(2)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6917061



研究の意義とは?人類に貢献することにある❣

学校法人静岡理工科大学 石川研究室 集合写真
きっと「神様は皆さんを応援して下さっています❣」


2022年10月から、日本DMC株式会社(以下、日本DMC)と学校法人静岡理工科大学(以下、静岡理工科大学)は、3次元点群データ上の、人の位置情報のリアルタイム共有方法の共同研究実施契約を締結しました。

日本政府が提唱している「Society5.0」の社会実現には、3次元空間情報基盤の実装・普及が不可欠であり、そのためには、様々な空間情報が空間IDを共通インデックスとして分野横断の連携を実現し、バーチャルとフィジカルをつなぐ様々なアプリケーションが活用され、バーチャルとフィジカルの融合が促進されるべきであるとされています。

本研究では、それらアプリケーションの一つとして、点群データが持つ静的な位置や属性の情報に、時間変化する動的情報を加えることを目的に、三次元点群データと衛星測位システムによる位置情報をリアルタイムに可視化するシステムを開発します。

本研究の成果をもとに、日本DMCは、平面的な地図にない高さ情報をもった三次元点群データを活かし、今後、都市部の災害時避難状況のリアルタイム可視化などのサービス提供につなげることを予定しています。

研究内容

1)点群データと衛星測位システムによる位置情報のリアルタイム共有システムの開発

2)システムの実証実験の実施

点群データ計測方法の一例

1)航空機(航空レーザ測量)

2)ドローン(UAV搭載型レーザスキャナ及び写真による計測)

3)車(車載型レーザスキャナおよびカメラによる計測)

4)背負い型(LidarSLAM機器、およびGNSS搭載LidarSLAM機器)

5)固定型(地上レーザスキャナ)

※本研究では1)航空機、4)背負い型、5)固定型で計測した点群データを使用しました。

静岡理工科大学 石川研究室との実証実験の流れ

(詳細は本文にて・・・)


PC側位置情報閲覧画面(反射強度表示)


ZIPANG-6 TOKIO 2020研究の意義とは?人類に貢献することにある❣
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/40592192



宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅰ

洞内の銀河


大船渡市三陸町越喜来 観音様の水飲み場 


気仙(けせん)は、伝統文化がいまも豊かに息づく土地です。

歴史的には「黄金の国ジパング」の名の元となった金の産出地としても知られ、 信仰、祭礼、踊り、建築物や美術工芸などを今に伝えています。

柳田國男が絶賛した地としても知られ、宮沢賢治の創作の源一つでもありました。

現在は、大船渡市、陸前高田市、住田町の2市1町に分かれていますが、 文化財の宝庫として、今もケセンは「黄金の国」と呼ぶにふさわしいエリアです。


宮沢賢治『風の又三郎』碑

アウトドア施設「種山高原・星座の森」の中央にあるコミュニティー広場に、市民有志によって設置された「風の又三郎像」(中村晋也氏作)が立っています。


種山ヶ原 初夏には西洋タンポポが咲き、高原が一面、黄色い絨毯となります。


種山ヶ原とは

種山ヶ原は、岩手県奥州市、気仙郡住田町、遠野市にまたがる物見山(種山)を頂点とする高原地帯で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれます。平原状の高原で気候も冷涼なことから馬の放牧地に適し、藩政時代から利用されてきました。

(岩手県気仙郡住田町世田米大股)

宮沢賢治がこよなく愛した高原としても知られ、童話「風の又三郎」「種山ヶ原」、劇「種山ヶ原の夜」などの作品は、種山ヶ原の風景や気象を題材にしています。宮沢賢治の発想の源である岩手の自然風景地「イーハトーブの風景地」の一つに指定されています。 

(詳細は本文にて・・・)


 イーハトーブの風景地(花巻)                編集局イメージ


ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その12)宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅰ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9285176



宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅱ

人首町 菊慶旅館周辺地図


宮沢賢治投宿の「菊慶旅館」

菊慶旅館のあった場所は新町と呼ばれ、明和3年(1766)に六軒から始まった町並みと伝えられています。旅館名が変わってから、四代続いていましたが、東日本大震災後、止む無く廃業をしましたが、建物は残し公開していました。しかし、大変残念ながら維持管理の問題から、2018年8月解体されたのでした。


人首町 菊慶旅館 大津県知事ご一行


明治後期から大正〜昭和にかけて最も繁盛し、時の大津県知事が十数人の随行者と共に投宿するほどの老舗旅館だったのです。

菊慶旅館が有用されたのは、馬繋場が隣接していたことです。岩谷堂でも馬まで連れて泊まれる旅館はなく、特に南部方面の人々から、大変重要視されたといいます。二つの主要街道を抱え、その分岐点としての位置から、必要不可欠な存在だったのでしょう。

賢治の大正6年9月3日の投宿については、同行者の誰かが体調を崩したと思われ、また岩谷堂へは乗合馬車は一往復だけで、葉書投函の時間帯からすれば、岩谷堂へ戻れる可能性はなくなります。むしろ賢治らは、投宿せざるを得ない状況に置かれたのではなかったかと思います。その後の、賢治一行の足取りは不明ですが、調査の予定日数はまだ3〜4日は確実に残していますので、おそらく休養をとった後に、再度種山ケ原や五輪峠方面に向かったのではないかと思います。


五輪峠「五輪塔」


峠の頂上付近は、昭和31年の開通工事で様変わりしていますが、現在の五輪塔の位置は、本来は反対の人首側にあり、かなり小さめで、おそらくそれが賢治の目に映った「しょんぼりと立つ」五輪塔ではなかったかと思います。

その由来は約350年前、人首の五輪街道筋の上大内沢にいた、千葉日向という侍が、父(上野)の菩提を弔うために建立したものです。五輪峠には、様々な歴史が潜んでいます。近世には幾つもの戦いがあり、その度に多くの血が流されたといいますが、この峠にまつわる逸話は、暗く悲劇性の濃い話ばかりです。

(詳細は本文にて・・・)


五輪峠


ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その13)宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅱ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9302948



~太宰治 信濃から津軽へ~

蓼科 親湯温泉周辺の夏の涼風景

蓼科は比較的湿度が低く、当館 蓼科 親湯温泉 周辺は、真夏でも最高気温が26~27℃ぐらいの日が多く、清々しく感じられます。太宰治や白蓮も歩いたであろうお堂までの小道を…


武田信玄の隠し湯 蓼科親湯温泉 露天風呂

ようこそ蓼科 親湯温泉へ

蓼科親湯温泉は、開湯1600年頃武田信玄の隠し湯として、地元の方々の湯治場として愛された場所でした。江戸時代は、蓼科エリアには親湯温泉(蓼科)、滝の湯温泉(蓼科)、渋の湯(奥蓼科)の3軒しかありませんでした。古くから地元湯川村の村営で営まれておりましたが、大正十五年に初代柳澤幸衛が 旅館業を営みましたのでその年を創業年としております。


太宰治の面影をたずねて~津軽へ~

太宰治実家 囲炉裏の間(一階)
天井が高いですね~飛騨高山の日下部邸と同じくらいありますね~


太宰治実家 洋室(二階)洋室はほかにも造られています。


旧津島家住宅は,津軽地方有数の大地主であった津島家(太宰治の本名は津島修治)の本邸であります。

南北に走る表通りに西面して主屋があり、主屋北東に文庫蔵、東背後に中の蔵、米蔵が建ち並び、宅地正面及び両側面西半に煉瓦塀を廻らしています。

主屋は明治40年、文庫蔵は明治38年の建築で、堀江佐吉の四男斉藤伊三郎が大工棟梁を務めました。中の蔵、米蔵、煉瓦塀も同時期のものであります。

旧津島家住宅は、津軽地方の伝統的町家の形式を踏襲しつつ、創意に富んだ構成や洋風の意匠を導入し、新しい時代の邸宅の姿を造り上げています。ヒバ(東北では「あすなろ」とも、木曾では「明日桧(あすひ)」、石川県能登では「アテ」と呼ばれています。)の良材を用い、巧緻な技術が駆使された大規模な近代の住宅建築として価値が高いとともに、土蔵や煉瓦塀などがよく残り、往時の屋敷構えをよく伝えている点も貴重な建築物であります。


太宰治実家「斜陽館」。名古屋では最近、氷柱を見なくなりました・・・地球温暖化⁉


青森県北津軽郡金木村(現五所川原市金木町)の実家
現在は、国指定重要文化財として青森県五所川原市により保存・管理されています。

国指定重要文化財「斜陽館」は、太宰治記念館になっており見学できます。
お問い合わせ太宰治記念館「斜陽館」電話 0173-53-2020


故郷に建つ太宰治の銅像。懐かしい洋服に下駄…我々小学生の頃はかなりボロい服だった…


太宰治の本名は、津島修治といいます。 青森県北津軽郡金木村(現五所川原市金木町)、大地主の家に明治42年(1909年)に生まれました。

父親が地主と衆議院議員をつとめ、地元の人は「金木の殿様」と呼び、長者番付で青森県内4位に入る人物でした。

家には使用人を加え30人あまりと同居し、この生家(津島家)「斜陽館」は現在、国の重要文化財に指定されています。

小さなころから神童と呼ばれ、東京大学進学、4回の自殺未遂。 「走れメロス」「津軽」「人間失格」「斜陽」などの数多くのベストセラー作品を生み出した。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-4 TOKIO 2020大正十五年創業の古き良き宿の魂とは「全ての人に深き癒やしと一杯の楽しさを!」(その3)~太宰治 信濃から津軽へ~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7867960



青森県北津軽郡鶴田町 ひば「鶴の舞橋」 岩木山残雪


青森県北津軽郡鶴田町 ひば「鶴の舞橋」 朝霧(9月初め)


鶴の舞橋は平成6年7月8日、岩木山の雄大な山影を湖面に美しく映す津軽富士見湖に、日本一長い三連太鼓橋「鶴の舞橋」として架けられました。全長300メートルもの三連太鼓橋はぬくもりを感じさせるような優しいアーチをしており、鶴と国際交流の里・鶴田町のシンボルとして、多くの人々に愛されている。

(詳細は本文にて・・・)


青森県 弘前市 国指定重要文化財「旧第五十九銀行本店本館」
~屋根に飾られたバラストレードと塔屋~


ZIPANG-5 TOKIO 2020 速報~明治の弘前が生んだ名匠~堀江佐吉の最高傑作 「旧第五十九銀行本店本館」リニューアルオープン! ~ひば、鶴の舞橋~とは・・・
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/17074274



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ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
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ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
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ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
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ZIPANG-7 TOKIO 2020

これまでの、日本の精神文化と国土の美しさについて再発見に加えて その1. 全世界との情報の共有化 その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重! その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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