100年以上にわたり、東京の中心で人々を見守り続けている東京ステーションホテル。
大正・昭和・平成と紡がれたその歴史は、時代ごとに携わった人々の軌跡そのもの。
礎を築いた者、大きな指針を創出した者など、人と人が生み出したホテルの物語がここにはあります。
~トワイライト~ 東京ステーションホテル(東京駅丸の内駅舎)
懐かしさ 煉瓦の薫 東京ステーションホテル(東京駅丸の内駅舎)
「東京駅丸の内駅舎」と言えば、誰もが知っている東京のランドマーク。
その中に位置するホテル…東京ステーションホテルは東京駅直結というアクセスの良さ❣
多くの人々の想いが形に。
東京駅の中に開業した東京ステーションホテル。
遡ること100年。東京ステーションホテルが誕生したのは東京駅開業から一年後の1915年(大正4年)のこと。その背景には、当時東京の宿泊施設が極めて少なくホテル建設が急務と言われながら、当時の経済情勢により東京駅のホテル建設計画が幾度となく揺れ動いていた経緯がありました。
1906年(明治39年)当初、東京商業会議所の第二代会頭・中野武営や鉄道業界などから駅の中にホテル建設を望む声があり、東京駅最終計画案の中にはホテルも含まれていました。しかし、ほどなくして訪日外国人の減少が始まり、1911年(明治44年)にはホテル建設案は中止に。その後再度計画が浮上したのは1913年(大正2年)のことでした。訪日外国人の急増が計画を後押しし、鉄道院総裁の仙石貢が東京ステーションホテルの開業を決断したと言われています。
一旦中止された計画、そして反対の声があった中で、ホテル建設を強く訴えた人々の想いが形となり、1915年(大正4年)11月2日、東京ステーションホテルは壮麗な東京駅の中にその扉を開きました。当に国内外の賓客をお迎えする名門ホテルの誕生でした。
ホテルは人が創る。
語り継がれる二人の総支配人。
1934年頃の東京ステーションホテルロビー
東京ステーションホテルの根幹を創り上げた二人の人物。それはホテル三代目総支配人の五百木(いおき)竹四郎と、1933年(昭和8年)鉄道省直営となり、その名を東京鉄道ホテルと改名した際の初代総支配人、剣持確麿です。
元精養軒の料理長でもあった五百木は、その経験から東京ステーションホテルの料理を確立。特に知られているのが、当時の料理長を指導して生み出した「ビーフシチュー」です。2012年(平成24年)のホテル再開業時にはレシピを現代風にアレンジして再び登場し、引き続き人気を博しています。
一方の剣持は、米国コーネル大学でホテルマネジメントを学び総支配人の経験もあり、最も重要と言えるサービスレベルの向上に尽くしました。合理的なマニュアル方式を積極的に採用し、スタッフの接客教育に取り組み、お客さまからの評価が更に高まりました。これは後に戦後の日本航空の客室乗務員トレーニングを東京ステーションホテルで行うなどの実績にも繋がっていきます。
二人の総支配人が成し得た業績と意志は、今日のホテルに脈々と受け継がれています。
東京駅が舞台になる。
文豪達に愛された物語。
1960年代頃の東京ステーションホテル1階コーヒーショップ
様々な人が集い、物語が生まれる東京駅。その中にある東京ステーションホテルには文豪達にまつわる多くのエピソードが存在します。
特に知られているのは松本清張の小説『点と線』。小説の中に列車の時刻表を使ったトリックを着想したのは、松本清張が1956年(昭和31年)頃にホテルに度々逗留し、客室から見渡せたプラットフォームを見ていた際だったと言われています。
川端康成は同じく1956年に一か月ほど滞在し、小説『女であること』を執筆。同作は後に原節子主演で映画化され、しばらく映画に使われた客室の予約が殺到しました。また大の鉄道好きだった随筆家の内田百閒はホテルを定宿にし、江戸川乱歩は推理小説『怪人二十面相』で名探偵明智小五郎と怪人が虚々実々の駆け引きをする場面を、客室を舞台にして描きました。
東京駅という多くの人が交錯する場所。そしてホテルにもその息遣いが伝わるからこそ、多くの文豪達に愛されたのかもしれません。
駅舎の保存・復原とともに 新たなスタートを切る。
“スペックではなく、 STORYを届ける”。
2012年の再開業日前に撮影した、東京ステーションホテルスタッフの集合写真
戦後60年以上、2階建てのいわば仮の姿だった東京駅丸の内駅舎が、2003年(平成15年)に国の重要文化財に指定され、その後2007年(平成19年)から始まった約5年間の保存・復原工事を経て100年前の壮麗な姿に甦りました。
創建当時から残る部分は限りなく保存し、失われた部分を忠実に復原するという他に例のない壮大なプロジェクトでした。その工事に伴い東京ステーションホテルは休館していましたが、駅舎の完成の一年後に迫る2011年(平成23年)開業準備室が発足し、再開業に向けて具体的に動き出しました。
その際に責任者として着任したのは、現総支配人の藤崎斉。藤崎は「“使い続ける文化遺産”にあるホテルだからこそ、その価値を国内外に広く伝えていく使命がある」と考え、“スペックではなく、STORYを届ける”という基本方針の下、ミッションステートメントを策定し、館内の設えやサービスポリシー等に展開していきました。
そして何よりも藤崎が重視したのは接客の在り方でした。「お客さまの気持ちに寄り添い記憶に残るホテルになる為に、私達は何ができるのかを考え抜くことが、このホテルのあるべき姿」とし、その骨格を創り上げました。
そして、2012年(平成24年)10月3日の午前10時。総支配人以下スタッフ165名で、東京ステーションホテルのドアを再び開けたのです。再開を楽しみにしていた多くのお客さまが集い、その賑いは多くのメディアでも取り上げられました。
お客さまとともに色褪せない記憶を紡ぐ。
大きな節目となったホテル開業100周年。
100周年記念日に特別ライトアップされた、東京駅丸の内駅舎
幾多の時代を乗り越えて100年のときを祝う、しかも100年前と同じ姿の駅舎でお客さまをお迎えする。
開業100周年はホテルにとって最大の出来事であり、他には代えがたい貴重な機会でもありました。
お客さまと感動を分かち合えるよう、あらゆる部門のスタッフが集結したプロジェクトチームで検討を重ね、2015年(平成27年)3月から12月まで、スタッフのアイデアを形にしたさまざまなプロモーションを実施しました。
なかでもユニークであったのは、お客さまの投票で決定する「100周年記念カクテル」。選ばれたカクテル「1915」はお客さまとスタッフがともに生み出した象徴として、バーの定番メニューに加わりました。
記念日の11月2日には駅舎のライトアップが祝賀カラーに彩られ、人が集い話題を呼ぶことに。
大きな節目をお客さまに支えられて迎えることができた、貴重な1年でした。
これから先の100年も、
記憶に残り続けるホテルであり続ける。
紡がれてきた幾多の歴史やその価値を継承し伝えながら、このホテルの在るべき姿を追求し続ける。2012年の再開業時に掲げた行動指針は、現在も揺るぎない価値として根底にあり続けています。
それは、長い歴史に刻まれた先人達の想いを大切にしながら、時代の要求に応え、不断の取り組みに挑戦するということでもあります。
再開業後、世界的ホテルコンソーシアムにも加盟し、真のラグジュアリーホテルとしてその価値と声望を広く海外に発信し、また周辺企業との連携施策や地域貢献にも積極的に関わっています。
これまでの100年を受け継ぎ、次の100年を創る。
東京ステーションホテル
東京ステーションホテル「バー&カフェ カメリア」
東京ステーションホテル「インペリアルスイート」
東京ステーションホテル「アンバサダースイート」
東京ステーションホテル「メゾネットスイート」
東京ステーションホテル「ローラ アシュレイ ルーム」
明治時代に計画され、大正・昭和・平成と受け継がれ、そして愛されてきたこのかけがえのないホテルで、スタッフの皆さんの新しいチャレンジはこの先も続いていくことでしょう。
東京ステーションホテルの歴史
— 「大正」「昭和」「平成」3つの時代とともに —
1914年(大正3年)
東京駅 開業
1915年(大正4年)
東京ステーションホテル 開業
1923年(大正12年)
関東大震災(駅舎・ホテルは特に被害なし)
1933年(昭和8年)
東京ステーションホテルが東京鉄道ホテルに改称
1945年(昭和20年)
空襲による火災により東京駅丸の内駅舎の屋根等が焼失
1947年(昭和22年)
3階建ての駅舎を2階建ての駅舎として復旧
1951年(昭和26年)
東京ステーションホテル 営業再開
2003年(平成15年)
東京駅丸の内駅舎が国の重要文化財に指定
2006年(平成18年)
駅舎の保存・復原工事のため、東京ステーションホテル 一時休館
2007年(平成19年)
東京駅丸の内駅舎 保存・復原工事着工
2012年(平成24年)
東京ステーションホテル リニューアルオープン
2013年(平成25年)
東京駅とニューヨーク・グランドセントラル駅が姉妹駅締結
2014年(平成26年)
12月20日 東京駅開業100周年
2015年(平成27年)
11月2日 東京ステーションホテル開業100周年
トップメッセージ
日本ホテル株式会社は、JR東日本グループでホテル事業を担う会社です。国の重要文化財である東京駅丸の内駅舎内のラグジュアリーホテル「東京ステーションホテル」、五感を魅了する数々のこだわりでお客さまをお迎えする「メズム東京、オートグラフ コレクション」のほか、フルサービス型の「メトロポリタンホテルズ」は〝やすらぎと華やぎが出会う場所。”、宿泊特化型の「JR東日本ホテルメッツ」は〝上質が息づく。″をブランドコンセプトとしています。利便性に優れた立地で、国内や訪日インバウンドのお客さまへ心からのおもてなしを忘れず、常により高いレベルのサービスを目指しています。私たち一人ひとりが考え、連携してプロとしての最適な行動を実践することによって、お客さまにご満足いただき、喜んでいただくことが、大きな誇りとなります。
当社は新型コロナウイルスの感染拡大を受け、感染症対策を可能な限り強化しました。安全安心を実現してお客さまから信頼をいただくための対策に一層力を入れています。中村勝宏統括名誉総料理長が牽引する調理スタッフを含め、さまざまな経験を積んだ多様な人財の力を十分に発揮し、地域の皆さまとともに今後のさらなる発展を目指してまいります。
代表取締役社長
里見 雅行
次号に続く・・・
補足
「江戸始図」徳川美術館 蔵
江戸城 歌川広重画
皇居 二重橋からの眺め Ⓒ鎹八咫烏
江戸城を造ったのは、誰か?
正解は太田道灌ではなく・・・実は、名もなき大工や左官、職人たち。
そしてだからこそ尊いのかもしれません。日常の中で真摯に仕事に向き合い、腕を磨いてきた、職人たちの努力が結集して形づくられたものであるからこその意義と価値。
東京丸の内駅舎。それもまた歴史に長く残る建物です。
およそ100年前に同じ場所に造られましたが、戦災によって一部を焼失。
以後60年、オリジナルな姿を人々が目にする機会はありませんでした。
そんな建物にもう一度、誕生した時の尊厳を取り戻させたい―工事だけで5年以上という
壮大なプロジェクトが動き出し一日に1400人にも達する職人たちが現場に集まりました。
21世紀の現場に生きる誇り高き職人たちが。
古の名工がそうであったように・・・
西岡常一氏を訪ねて・・・
最後の宮大工と言われた 宮大工 西岡常一
薬師寺西塔の石段に座り、
法隆寺や薬師寺西塔の建築について熱く語る西岡常一氏
幼児の頃から…、祖父の話、また薬師寺の木を探しに台中(台湾中部)の山中に分け入り立木を見に行った時の話、また独立したお弟子さんの話等々…つい西岡棟梁の話に夢中になり、気が付くといつしか夏の陽は西に傾いていました。
「木のくせ組むには人を組め」
昭和62年初夏、薬師寺西塔に西岡家三代にわたる法隆寺の宮大工西岡常一棟梁を訪ねたことがある。西岡棟梁は正倉院に納められた工芸用のヤリガンナを参考に研究し、堺の刀鍛冶・水野正範氏の協力を得て再現したのである。
飛鳥の時代に使われていた工具・ヤリガンナとは一体どんなものでどのように使うのか尋ねると、薬師寺伽藍復興奉行所に案内してくれ西岡棟梁は、製材したばかりの桧(台桧)を実際にヤリガンナで削って使い方と仕上がりを見せてくれた(ヤリガンナで削った木のくずは、薄く長く巻いて美しい)その折に、この時とばかり質問してみた「木造建築のこんな大きなものを、出身の異なる大勢の匠の方たちで造る時の極意とは?」すると、西岡棟梁がポツリと独り言のように「木のくせ組むには人を組め」と・・・(合掌)
薬師寺 西塔
ZIPANG-5 TOKIO 2020「日本のたてもの ―自然素材を活かす伝統の技と知恵」の開催について【文化庁】
「木のくせ組むには人を組め」 宮大工 西岡常一
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/14157255
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
東京ステーションホテル 〒100-0005 東京都千代田区丸の内1-9-1 電話:03-5220-1111
紅山子(こうざんし)
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「丸の内」とは?
東京 丸の内大手町 行幸 スケートリンク
東京 丸の内仲通り
東京 丸の内大手町 丸ビル・新丸ビル
毎日、国内外問わず多くの人が行き交う東京・丸の内。4,000 を超える企業が集積するビジネス街、丸ビルや新丸ビル、丸の内仲通りなど旬なショップが軒を連ねるショッピング街、東京国際フォーラム、各所に点在する美術館などアートやカルチャーの発信地など、さまざまな魅力ある顔を持つ日本を代表するエリアです。
ZIPANG-6 TOKIO 2020 日本の近代化を象徴する歴史的建造物や日本や東京を象徴するエリアが演出する冬の情景
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/39341104
Marunouchi Street Park 2023 Summerにおける検証強化項目
Marunouchi Street Park 2023実行委員会(構成団体:大丸有エリアマネジメント協会、大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会、三菱地所株式会社)は、都心の広場・公園的空間の在り方を検証する社会実験「Marunouchi Street Park 2023 Summer」を7月27日(木)~9月21日(木)の57日間、丸の内仲通りにて実施します。(現在、開催中)
今年も、ストリートピアノをお楽しみください!
毎年多くの方が演奏するストリートピアノが、今年はステージのような雰囲気の装飾とともに設置されます。8月19日(土)からは、エリアの就業者や来街者による演奏企画も開催されます(後段参照)。
丸の内仲通りビルのレストラン「GARB Tokyo」や「パリアッチョ 丸の内仲通り店」、の屋外客席も展開し、上質な音楽とともに食事をお楽しみいただけます。
ZIPANG-7 TOKIO 2020<都心の広場・公園的空間のあり方を検証する社会実験>Marunouchi Street Park 2023 Summer
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/45930878/
作品原画(竹抜五郎)
「TOKYO FLOWER CARPET 2022」では、江戸時代に一世を風靡した浮世絵師 歌川国貞(三代目豊国)が描いた歌舞伎絵(役者絵)を、50,000本のカーネーションを使い、巨大な花絵「花歌舞伎」として現代に甦らせ、行幸通りが花の絨毯で敷きつめられます。総合監修は、花歌舞伎を生み出し、世界各地で作品を創り続ける花絵師の藤川靖彦。
「TOKYO FLOWER CARPET 2022」は、東京都の大規模文化事業助成の一環として開催され、世界に誇れる文化、アートを、東京から発信することを狙いとし、日本、そして東京の中心である行幸通りから、これまで体験したことのない、東京の新しい感動を発信していきます。
ZIPANG-6 TOKIO 2020江戸時代に描かれた歌舞伎絵が、巨大な花絵となって現代に甦ります!
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/32492429
国指定重要文化財『旧済生館本館』(山形県山形市)
三層楼
旧済生館本館を最も象徴する部分です。1層が8角形で正面に吹き放しの石敷きベランダ、2層が16角形の広間で屋根はドーム型の大屋根、3層は8角形の小部屋で広いベランダが取り付けられています。
外観は3層ですが、ベランダが4つあることからもわかるように、内部は4階建てとなっております。2階と最上階の3階の間にある部屋を、中3階あるいは階段室などと呼称しています。
このような複雑な構造は、小屋組みの一部に西洋の技術が取り入れられているほかは、日本古来の高度な木造建築技術が支えているといわれています。
回廊と中庭。1階の屋根は桟瓦葺き
建物は、当時横浜にあったイギリス海軍病院を参考にしたと言われています。
中庭を囲んで病室を円形に配置し、正面の塔屋は三層構造の独特の形態になっています。
ZIPANG-3 TOKIO 2020 明治の最高傑作 旧済生館本館(山形市)「明治の宮大工たちの魂は、昭和に引き継がれ、そして未来へと・・・」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/7213245
※現在、2100件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。
新サイトの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/
最新の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/
最近の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/
250件ほどの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/
235件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/
200件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/
615件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
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