ZIPANG-7 TOKIO 2020「自然と暮らす茶の湯の楽しみ方」


今、人は何か大切なものを求めているように思われます。それは世界が産業革命以来、物資文明での幸せの追求に明け暮れて来ましたが、本当の意味での人としての幸せと平和を願う心、言い換えれば「心の文明」への希求ではないのでしょうか。


山里の自然しかない静かな日常の暮らしのなかで、暮らしの楽しみの一つとして茶のお稽古の環境の調和を考えて工夫をすることは、頭の体操にもなり、動くことで体の健康にも繋がり田舎暮らしも良いものです。


ただこのところの温暖化、地震、台風などによる環境の大きな変化が生じ、清水を湛える池や田畑や土蔵や古い建物、植栽などの処理も課題になり、この調子だと体力が続くかどうか・・・


作物を作らなくなった畑であっても、クマ、イノシシ、サルなどの獣害を心配しながらも茶花を育て、裏山の伐採した木は薪にして、その灰から、お茶に使う灰を何年かけても作れないかと工夫をしていますが、素人ではなかなか上手くはいきません。


別に意図をもってはじめたわけではないのですが、畑の草刈り、獣害のない草や花、周りの環境をあまり醜くしないよう手入れをしていただけですが、すっかり、自然の中に溶け込んで暮らすようになり、偶然お茶を楽しむことと繋がったようです。


裏山の竹林は何かと便利で、結界を造ったり、蹲の水を落とすにも、青竹はすがすがしいですし、莨盆の灰吹きにも切りたては気持ちの良いものです。ただ、ここ20年来、当地も、日本中の例のように獣害が例外でなく、サルの被害ですべてのタケノコがたべられてしまうので、竹を育てるのも一苦労です。


清水と蹲の自作の青竹は清々しい


生活の工夫


お茶をする方は、様々な工夫をされるようです。
お茶には、生活の知恵につながるものが沢山含まれているように思われます。


それは茶道の動作が、最も合理的な用の美ともいえる、無駄のない、模様のつかない動きを目指していることに関係しているようですね。


ものの扱いしかり、ものの寸法しかり。気まぐれに作った竹の花入れはやがて飽きてしまいますが、何百年も時代をくぐり銘品とされてきた、花入れの寸法を真似てつくってみると、皆さん異口同音にどのような花も良く合って長く楽しめるのが不思議ですとおっしゃいます。

是非一度体験されては如何でしょう・・・


竹一重花入れ 滝津瀬  裏山の竹で作る


また時には過行く名残の季節味に、篭にたっぷりと秋草を盛るのも楽しいものです。


昭和の想い出

昭和32年頃だったか先生(男)の御供で、表千家十三代即中斎 千宗佐家元にお目にかかる
機会がありました。花も習っていると申し上げると、えらいえらいと言って褒めて戴いたことがあり、その折に「表千家のお点前は、ごくごく自然の動作でしなさいと、そして覚えるより慣れなさいとも、また茶花は秋の草は別として、それ以外は、1~2種に、また生けようと思う花を手に取り、とり合わせて眺めてみて、一度に花入れに挿すことを忘れないように。」こんなことを仰られた記憶があり、うちの先生から教えられたことは即忘れても、(天の声:この罰当たり!)何故かこの言葉だけは忘れずにおりました。
うちの先生はやたらペコペコしてはる、どこぞの偉いお坊さんかいな~暫くの間
このおっちゃんが(失礼)誰なのか知りませんでした。(天の声:大馬鹿者😠)


茶花 秋深まりての花々


山中や 菊はたおらぬ 湯の匂い 芭蕉


石川県 山中温泉の名所、鶴仙渓川床 黒谷橋のたもと「芭蕉堂」

山中温泉 芭蕉堂

黒谷橋のたもとの松尾芭蕉を祀った「芭蕉堂」や、書院造りの武家屋敷に九谷焼や尾形光琳の作品を展示した「無限庵」※、「鶴仙渓川床」など周囲の見どころも多い散策スポットです。


※無限庵



加賀藩家老であった横山家が、金沢市の邸内に建てた書院を移築したものです。
明治末期の木造技術の枠を傾けた、最高級の普請であったと伝えられています。

成巽閣(重文・金沢)に見られる武家邸宅書院の伝統を継承する近代の書院造として貴重な遺構で、加賀蒔絵、古九谷、千利休ゆかりの茶道具など数々の古美術品を展示しています。


バリアフリー環境を


現代の世に従い正座でなくとも、また高齢者にも茶の湯の稽古も、
椅子や路面もバリアフリーを活用


最後に利休七則をご紹介いたします。

利休七則

1・降らずとも傘の用意

   備えとは、万人の憂いを想定すること

1・刻限は早めに

   ゆとりとは、自らの心がけ次第で平常心でいる事

1・夏は涼しく冬暖かに

   もてなしは、相手を思う心で5感を使って工夫すること

1・花は野にあるように

   ものの表現とは、本質を知り、簡潔に伝える事

1・炭は湯の沸くように

  準備・段取りとは、要となるツボをおさえること

1・茶は服の良きように点て

   事を行うには相手の気持ち・状況を考える事

1・相客に心せよ

   何事に接するに、無垢な心で、素直な態度で



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使


協力(敬称略)

表千家流教授 小俣 宗苑

一舟・光秀

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


奈良県 生駒山 高山茶筌


一子相伝の技「高山茶筌(ちゃせん)」

茶筌とは抹茶を点てるために使用する道具の1つです。

抹茶と言えば、こんもりと泡立てた姿が有名なため「泡だて器の一種」と考えられることも多く、例えば“茶せん”を英語で表記すると“Tea Whisk(お茶泡だて器)”となります。しかしながら、茶せんは本来お湯を加えた抹茶を、茶碗の中でかき回し均一に分散させる道具であり、泡を立てる道具ではありません。


奈良県生駒市 高山竹林園 竹の寒干し

高山の冬の風物詩「竹の寒干し」は、生駒市高山地区内で毎年2月の寒い時期に行われています。竹を笠のように寒風にさらして1ヶ月程度天日で干します。


茶道を支える高山茶筌

生駒市の北端にある高山地区は竹製品の伝統技を伝える里。500年以上の歴史を有する高山茶筌を始めとする茶道具や編み針を秘伝の技により高山の人々によって伝えられてきました。

高山茶筌は室町時代中期から「一子相伝」の技として今日まで脈々と受け継がれており、永年の研究と努力から継承されてきた伝統の技は、小刀と指先でほとんどを作ることから「指頭芸術」といわれ、国の内外で高く評価されています。 現在も茶筌の国内生産シェアの95%以上を占めています。


高山の歴史

万葉歌碑

奈良県生駒市 竹林園 万葉歌碑


生駒市の万葉歌碑

生駒市では、万葉集で生駒という固有名詞が出てくる6首の歌碑を建立している。
その一基が竹林園内にあります。


「妹に逢はず あらばすべなみ 岩根踏む生駒の山を 越えてぞ我が来る」


遣新羅使人 巻15-3590

あなたに逢わないではいられなくて、岩を踏んで険しい生駒山を越えてきた。


世界で一つの茶筌「このみ」

奈良県生駒市 高山竹林園

「このみ」は淡竹の一種の「紋竹」で作った茶筌で、「紋」は同じものがなく、また編み糸も色々な色の糸を使用していて、世界で一つの茶筌となっています。   


茶筌の国内生産量のほとんどを占めて日本唯一の茶筌の生産地として有名な高山ですが、なぜ、この高山の地でこんなにも茶筌作りが盛んになったのでしょうか?

それは、今から500年以上も昔、室町幕府8代将軍足利義政の時代のお話です。

その昔、ここ高山は、鷹山氏が支配していた村でした。

この村で茶筌が作られたのは、室町時代の中頃のことです。高山城主の次男宗砌が親友の村田珠光に依頼されて作ったのが始まりと伝えられています。

さて、茶筌作りを依頼したというこの村田珠光とは、一体何者なのでしょうか? 実はこの村田珠光は、称名寺※という寺の住職で当時流行の連歌、和歌、書道の達人として有名な人物で、現代では、一般的にわび茶の創設者とされています。


※称名寺

もともとは興福寺の別院で興北院と呼ばれていました。称名寺という名称は、文永2年(1265)興福寺の僧、專英と琳英、京都西山三鈷寺の澄忍上人の三僧が、念仏の道場として開した時に始まります。

茶道の始祖とうたわれ、同寺の僧でもあった村田珠光は「独盧庵」(俗称珠光庵)を建て“陀び茶”の境地を開いたといわれ、珠光ゆかりの寺として今も多くの人が訪れています。

※本堂・茶室は5/15特別公開のみ拝観できます。


そんな珠光と宗砌は連歌や和歌を通じて親交が厚く珠光が初めて茶道を考案したときに茶道にふさわしく茶をまぜる道具の制作を依頼され作りあげたのが、この茶筌なのです。

その後、珠光が京都へ移り時の帝、後土御門天皇が茶の湯の席へ出かけられたとき、宗砌が献上した自作の茶筌を鑑賞されました。

そして、その繊細な作りを見てお褒めの言葉を頂くと同時に、その茶筌に高穂(たかほ)という名前をつけてくださいました。これに宗砌は感激して茶筌つくりに力を入れ、その製法を鷹山家の秘伝としました。

こうして天皇が名前をつけてくださったことにより、高穂茶筌が有名になり、ここ鷹山村の名前や家名の鷹山を廃止し高穂にちなんで高山と改めました。 高山城がなくなった後も秘伝の茶筌制作、販売を許された家臣16名が秘伝としての言いつけを固く守り一子相伝の伎として、生まれて性を名乗る男子以外には、茶筌の制作を許すことはありませんでした。

時は流れて昭和の時代を迎えても、この秘伝は固く守られてきましたが、人不足によりこの制度はこわれ、長きにわたって秘伝とされてきた技術も一般に公開されるようになりました。また、500年の歴史と技術を認められ国の伝統的工芸品に指定されています。

高山では茶筌の製造に付属して、茶道具も生産されるようになりました。茶道具には柄杓、茶杓、茶合、花器、菓子箸などその種類は数えきれないほど豊富にあり、その手作りの伝統製法は秘伝として400年余りの歴史を持っています。

明治時代の終わりごろからは、伸子針をもって始まった高山の編針製造は、大正7.8年ごろから毛糸編針の出現により、一大発展期を迎えました。さらに戦後になり、女性の手芸手編みブームで編針の需要は急激に加速しました。こうして高山は茶筌、茶道具、編針と時代を超えて竹製品の産地として有名になりました。

(詳細は本文にて・・・)


竹生庵 奈良県生駒市 高山竹林園 茶室

待合やつくばい、露地庭などがしっとりと美しい本格的な茶室です。


ZIPANG-5 TOKIO 2020 室町時代から続く ’’一子相伝’’ 茶筌(ちゃせん)づくりの技を今に伝える!~生駒市高山地区~
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/15754073



~日光田母沢御用邸記念公園~

御用邸「中坪(中庭)めぐり」ガイドサービスが始まりました


御用邸の中坪(中庭)の一つ クリンソウの咲く庭

茶室は2部屋あり、一部屋は「立礼茶室」です。下記リンクを開いてご覧ください。


御用邸研修室〔立礼茶室〕


本公園は、世界遺産に登録された日光東照宮をはじめとする二社一寺「日光の社寺」に近接し、北には男体山、女峰山等の日光連山を仰ぎ、南は大谷川の清流を 隔てて鳴蟲山を借景とし、西は寂光の滝を源とする田母沢川を境とし、周辺を杉木立に囲まれた閑静で風光明媚な場所にあります。

日光田母沢御用邸は、日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の三階建て部 分)を移築し、その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に大正天皇(当時 皇太子)のご静養地として造営されました。その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、大正7年(1918)から大規模な増改築が行われ、大正10年(1921)に現在の姿となりました。

昭和22年(1947)に廃止されるまでの間、大正天皇をはじめ、三代にわたる天皇・皇太子がご利用になりました。戦後、博物館や宿泊施設、研修施設として使用された後、栃木県により3年の歳月をかけ、修復・整備され、平成12年(2000)に記念公園として蘇りました。 建物は、江戸時代後期、明治、大正と三時代の建築様式をもつ集合建築群で、現存する明治・大正期の御用邸の中では最大規模のものです。これらの建物や庭園から、当時の建築技術や皇室文化を垣間見ることができます。

平成15年(2003)に貴重な建造物として「国の重要文化財」に指定され、平成19年(2007)には「日本の歴史公園100選」に選定されました。四季折々の風情ある庭園と日光田母沢御用邸の100年に及ぶ荘厳な趣きを是非ご堪能ください。 ※本公園は、国有地の無償貸付を受けております。

(詳細は本文にて・・・)

御用邸「中坪(中庭)めぐり」下行道へ入るところです


ZIPANG TOKIO 2020「御用邸『中坪(中庭)めぐり』特別開催! 【明治150年関連施策】イベント~日光田母沢御用邸記念公園~ガイドサービスが始まりました 」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/4181382



つば甚 外観


つば甚最古の部屋


つば甚としてつくられた部屋のなかで一番歴史があり、江戸末期の頃につくられたとされる部屋です。 床柱としては非常にめずらしい石榴(ざくろ)を使うなど、当時の工匠のこだわりを見ることができます。 また部屋にかけてある書は、近代日本画壇を代表する画家・横山大観が泊まられた際に揮毫された書。



亀田是庵が使用した部屋「茶室 是庵」


つば甚 亀田是庵が使用した部屋「茶室 是庵」

金沢ゆかりの茶人として知られ江戸末期から明治初期にかけて薬種商を営んだ亀田是庵。

その亀田是庵が表千家の茶室「不審菴」を模してつくった茶室を移築した茶室です。
二畳台目出炉の茶室で、亀田是庵と親交のあった裏千家十一代家元・玄々斎が度々茶を楽しんだと言われています。


「閑さや 巌にしみ入る 蝉の声」

山形県 山寺「宝珠山立石寺」に建つ芭蕉・曽良像


山形県 山寺「宝珠山立石寺」に建つせみ塚

俳聖松尾芭蕉が山寺の地を訪れたのは元禄二年(1689)旧暦で五月二十七日(新暦七月十三日)、紀行文と句を詠んだのは当時麓にあった宿坊といわれています。

その後、翁に連なる弟子たちがこの地を訪れ、往時の面影から翁を偲び、この場所が芭蕉翁が句の着想を得た場所ではないかと、翁の遺した短冊を土台石の下に埋め塚を立てたものがせみ塚となります。

その後、山寺は斎藤茂吉をはじめ多くの俳人・歌人が訪れ、今尚変わらぬ風景に芭蕉翁を感じた方々が残した詩が参道の至るところに句碑となってご覧になれます。


九日間、芭蕉が過ごした部屋「吟風の間」


奥の細道の途次、金沢へ訪れた松尾芭蕉が九日間滞在した片町にあった「宮竹屋」を移築した部屋です。 苔むした中庭には戦国時代の武将として知られる高山右近がつくったキリシタン灯籠を配しており、灯籠の足もとにはマリア様が彫られています。 土間にはヤブコウジが植えられ、季節を問わず可憐な赤い実を観ることが出来る。

さらに、つば甚には句会を催した小春庵を移築した部屋もあります。


塚もうごけ 我泣声は 秋の風

秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄子

あかあかと 日は難面も 秋の風



つば甚 伊藤博文を魅了したしつらい「月の間」


伊藤博文、芥川龍之介、三島由紀夫など、幾人もの文人墨客が利用した部屋で、
伊藤博文はこの部屋に投宿して、つば甚の料理、もてなし、部屋からの眺めに感銘を受け 「風光第一楼」という書をしたためた。

深みある紅殻の壁、前田家の姫君の帯をつかった地袋、なぐりと細竹を編んだような広縁の鶯張りの床など、金沢らしい風雅なしつらいを楽しめます。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG TOKIO 2020「伝統を伝承して新しきをつくる『つば甚』館内編」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3897019



沢庵寺のある出石の城下町 時の鐘は古今折衷で時計に変わっています。


沢庵寺 境内 山門 今夜は和尚さんのためになるお話が聞ける日 大勢の人が集まります


出石城下町の名刹宗鏡寺は、室町時代に但馬守護大名山名氏の菩提寺として創建されました。 しかし、山名氏の治世後、江戸時代に入る頃には荒れ果てていました。見かねた出石出身の沢庵和尚が、親交のあった出石藩主に再興を勧め、寺は再建されることとなりました。

晩年には沢庵が小さな庵を設けて暮らしたことなどから、城下町の人々から親しみをもって「沢庵寺」と呼ばれ、現在も臨済宗大徳寺派の禅刹として広く知られています。

是非、現地で動乱の時代を生きた沢庵和尚の生涯に触れてみて下さい。


                 沢庵和尚



沢庵和尚とは

柳生宗矩・宮本武蔵の剣は心身鍛錬の師匠・沢庵禅法に依るものです。出石に生まれ、漬物の "たくあん漬" は自ら創作し、広めたものと伝えられています。

宗鏡寺には沢庵和尚が作られた「鶴亀の庭」や「心字の池」、和尚お手植えと言われています 「胡蝶わびすけ」、和尚の夢に出てきたとされる「夢見の鐘」等が現存しています。

また、48才から8年間過ごした「投淵軒」では数多くの和歌をつくり、書物をあらわしました。


宗鏡寺の境内


沢庵寺 境内 本堂


沢庵寺 お茶室 対来閣


沢庵寺 お茶室 対来閣


沢庵寺 8年間過ごした投淵軒 外観


沢庵寺 8年間過ごした投淵軒 内観


容量オーバーで画像の掲載が難しくなりました。😓
下記添付のURLからご覧ください。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 出石城下町の名刹圓覚山 宗鏡寺と宮本武蔵心の師 沢庵和尚(その2)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9835936



伝千利休 《待庵》 安土桃山時代(16世紀)/2018年(原寸再現) 制作:ものつくり大学

千利休の作と伝えられ、現存する茶室建築としては日本最古の国宝《待庵》(京都府・妙喜庵)は、「わび」の思想を空間化したもので、日本文化を語る上で欠くことのできない建築の一つです。(参考イメージ:ZIPANG TOKIO 2020 編集局)

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 全国の伝統的工芸品が東京に!「JAPAN TRADITIONAL CRAFTS WEEK 2021」(Ⅰ)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/22420481



犬山有楽苑(国宝茶室 如庵)


犬山 国宝茶室 如庵


犬山 国宝茶室如庵 有楽窓


国宝・犬山城のすぐ東にある日本庭園 有楽苑と国宝・茶室如庵

織田信長の実弟が建てた国宝茶室「如庵」

犬山城の東にある庭園・有楽苑には、国宝茶室如庵、重要文化財旧正伝院書院、古図により復元された茶室元庵、新しく建てられた茶室弘庵などがあり、静かなたたずまいをみせています。

如庵は、茶の湯の創世期に尾張の国が生んだ大茶匠・織田有楽斎が建てた茶室で、昭和11年に国宝の指定をうけた茶道文化史上貴重な遺構です。京都山崎妙喜庵内の待庵、大徳寺龍光院内の密庵とともに、現存する国宝茶席3名席の1つです。

織田有楽斎は信長の実弟として天文16年に生まれました。波瀾に富んだ人生を送った有楽の生涯を写すがごとく茶室如庵は各地を点々としましたが、昭和47年に犬山城下の佳境の地に移築され、庭園を含め「有楽苑」と名付けられました。

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG TOKIO 2020「犬山 木曽川うかい 1300年の伝統の匠の技 女鵜匠も活躍!犬山城の東 庭園・有楽苑には、国宝茶室如庵」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2481253



お茶 やきもの 温泉は嬉野の三種の神器⁉ 

グリっと丸い高品質のうれしの茶


佐賀県 嬉野 茶畑


うれしの交流館 お茶の葉手もみ


なだらかな山間のまち・嬉野は、茶の栽培に適した地。一番茶が育つ4月中旬ごろには、茶園を包む朝霧の水分が新芽の育成にほどよく、朝晩の寒暖差は茶の育成にメリハリを与えて香りやコクを育みます。そんな恵まれた環境で育った「うれしの茶」は、全国茶品評会の蒸し製玉緑茶部門で5年連続日本一、また高品質な茶の生産地に贈られる「産地賞」を受賞するなど品質の良さはお墨付きです。

うれしの茶の主流は、高温で蒸した後に乾燥させてつくる「蒸し製玉緑茶」で、勾玉のようにグリっと丸い形をしているのが特長の一つ。一方、嬉野を発祥とする「釜炒り茶」も存在し、これは約500年前に、明(中国)の陶工がやきものと同時に製法を伝えたもので、生産量が少なく希少価値の高いお茶とされています。



佐賀について

日本列島の南西部に位置する九州。その九州北部にある佐賀は、東は福岡県、西は長崎県に接しています。北は玄海国定公園に指定された風光明媚な海岸線を誇る玄界灘に面し、南には最大干満差6mの広大な干潟の広がる有明海に接した肥沃な佐賀平野が広がっています。のんびりとした田園風景が広がる農業や水産業の盛んな県です。

佐賀には世界的に有名な陶磁器、豊かな自然に育まれた高い品質の食べ物、のんびりとくつろげる温泉やお祭りなど歴史的な伝統ある豊かな文化など魅力的な見どころがたくさんあります。


ZIPANG-2 TOKIO 2020~ 神功皇后が名付けた『嬉野』~速報「“うれしの茶寮「ochaba」“を六本木に期間限定オープン ! お茶 やきもの 温泉は嬉野の三種の神器⁉ (前編)」 
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5134964



若手茶農家が淹れる、嬉野茶を味わえるカフェスペースが六本木に登場


嬉野茶時とは

嬉野の土地で何百年もの間受け継がれてきた歴史的伝統文化である「嬉野茶」「肥前吉田焼」「温泉」 をつなぎ、時代に合わせた新しい切り口で表現するプロジェクトチーム。中心メンバーは、温泉旅館の経営者や茶農家・茶師、肥前吉田焼の窯元など嬉野市内の産業メンバーで構成されています。

佐賀・嬉野の伝統文化を伝え、新しい魅力を発信するために、嬉野の有志を中心に結成されたプロジェクト「嬉野茶時(うれしのちゃどき)」の協力のもと、新しいカルチャーが生まれる街・六本木で新たなお茶の愉しみ方を発信。


嬉野茶 ティーセレモニー


嬉野の魅力を語るうえで欠かすことができないのは「日本三大美肌の湯」である嬉野温泉と400年以上の歴史を持つ「肥前吉田焼」。「肥前吉田焼」は「有田焼」「伊万里焼」「唐津焼」その他佐賀県内外の産地とともに「肥前窯業圏」として新たな活動を展開し、陶磁器のファンからも注目されています。今回のティーセレモニーでは肥前吉田焼の器を使って嬉野茶の提供を行います。

(詳細は本文にて・・・)


嬉野温泉 野趣豊かな露天岩風呂


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~歴史的伝統文化を伝えたい~ 嬉野茶時「コーヒーもいいが、やっぱりお茶が飲みたい!うれしの茶寮 『ochaba』 を六本木に期間限定オープン (後編)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5140185



東京 日本橋 古今折衷の茶室 英遊斎 水戯庵(えいゆうさい すいぎあん) 


日本橋室町 福徳の森の地下に能舞台と茶室を擁するレストラン&バー「英遊斎 水戯庵(えいゆうさい すいぎあん)」を6月10日、リニューアルオープン

(詳細は本文にて・・・)


ZIPANG-6 TOKIO 2020 日本橋室町〜日本の季節で文化(食・茶・酒・ライブ・空間)を遊ぶ〜
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/35084837/



徳川美術館の魅力

伝統文化を体感できる雰囲気


黒門

徳川園の入口 --- かつての尾張徳川家名古屋別邸の表門、通称「黒門」をくぐると、緑に囲まれた石畳の向こうに、徳川美術館の前景が見えてきます。 公園と美術館とが一体となったゆったりとした雰囲気は、そのまま館内へと続いてゆきます。 当時の最先端技術を駆使した建築でありながら、日本文化の伝統の薫りに浸ることのできる雰囲気は、徳川美術館の最高の魅力といえましょう。 平成16年(2004)11月には、隣接する池泉回遊式の日本庭園「徳川園」と尾張徳川家旧蔵書を収蔵する「名古屋市蓬左文庫」がリニューアルオープンし、 美術館をとりまく一帯が整備されました。徳川美術館と蓬左文庫の展示室は一体化し、近世武家文化を体感できる歴史文化拠点となりました。


千利休書状 川端道喜宛

2019年7月17日(水)~期間限定にて公開

和歌や茶の湯に優れ、茶の湯を武野紹鷗(たけのじょうおう)に学び、利休と親しく交わった、京都の町衆、川端道喜(生年未詳~1592)に宛てた千利休(1522~91)の書状です。

朝顔の花を生けて行った茶事について触れられています。


陶磁


大名物 曜変天目(油滴天目)【中国・金時代 12~13世紀】

〔伝来〕樋口屋紹札―油屋紹佐―油屋浄祐―徳川家康―尾張徳川家初代義直 一口 高7.6 口径13.3 高台径4.5


一般的な天目形とは異なり、側面が丸みを持った椀形をしており、高台は高く大きめで中央が刳られています。釉も暗紫色で、銀色の大小さまざまな油滴がびっしりと浮かんでおり、中国・山西省懐仁窯の産と考えられています。古くから「曜変」と呼ばれてきましたが、銀の班文がびっしりと表れた釉調は、現在の分類では「油滴」に入ります。


大名物 油滴天目(星建盞)【中国・南宋時代 12~13世紀】一口 高6.8 口径12.1 高台径4.0


尾張徳川家で古くより「星建盞」と称された茶碗です。中国・建窯産の天目で、現在では油滴に分類されます。碗の内外共に無数の油滴斑が浮かび、油滴斑が流下して禾目状になった部分も多く斑・禾目共に銀色に発色しています。室町時代の座敷飾りの規式書『君台観左右帳記』には「ゆてきのごとくほしのあるもの」「如星薬有」と記され、本碗もこのような茶碗の一例として珍重されてきました。


大名物 灰被天目 【中国・南宋時代 13世紀】

[伝来]油屋浄祐-徳川家康-尾張徳川家初代義直 一口 高6.8 口径13.3 高台径4.2


見込と釉溜まりには黒釉の色が見られますが、二重に掛けられた釉薬が腰のあたりで変化し、他の灰被とは異なり柿色を呈しています。表面には、銀色の細かな班文が散っています。灰色の堅く焼締まった土と、浅く、シャープに整えられた高台の特徴から、建窯の産ではないかと考えられています。この灰被天目は、『山上宗二記』に記載された天目のうち、唯一の現存作例です。


工芸・その他


名物 竹茶杓 銘 泪【桃山時代 16世紀】作者:千利休作

所用者: 古田織部・徳川家康(駿府御分物)・徳川義直(尾張家初代)所持 材質: 竹 員数: 1本 法量: 長16.8


天正19年(1591)2月、豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休が、自ら削り、最後の茶会に用いた後、古田織部に与えられ、織部は長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられています。 

『駿府御分物御道具帳』四「色々御道具帳」には「一 利求茶さく 壱本」とあり、ここでは「泪」の銘は見られませんが、元和9年(1623)2月に、2代将軍秀忠が江戸の尾張屋敷を公式訪問した際の記録『元和御成記』には「涙の茶杓」、尾張家2代光友が初代義直から遺産を譲り受けた際に編纂された『慶安四年御数寄御道具帳』では「一 御茶杓 利休 涙」と記されています。『玩貨名物記』・『古今名物類聚』所載。


竹茶杓 銘 虫喰【桃山時代 16世紀】作者:伝 千利休作

所用者: 徳川光友(尾張家2代)・綱誠(同家3代)・松平義行(高須松平家初代)所持 材質: 竹 員数: 1本 法量: 長18.0


白竹で中節と切止の部分と2つ節があり、中節の下方と切止に穴が空いています。いずれも虫喰の痕と思われ、奇形の竹を用いて、見所としています。

筒は共筒・桧蓋で、〆印のところに「宗易」と「花押(ケラ判)」があります。

桐箱蓋表に、桧製の古箱の蓋表の一部がはめ込まれ、そこには「宰相様より被進候御数奇(寄)道具五色之内 御茶杓 利休虫喰 元禄六年酉五月九日」と墨で記されています。宰相様とは尾張徳川家3代綱誠であり、綱誠が松平義行(高須松平家初代)に御数寄道具(茶の湯道具)5種の1つとして与え、後に尾張家に戻った茶杓です。


竹茶杓【江戸時代 17世紀】作者:古田織部作

所用者: 前田玄以所持 (小堀遠州箱書) 材質: 竹 員数: 1本 法量: 長18.0

白竹で経年による美しい色艶がある茶杓です。節裏に虫喰いの跡があり、典型的な織部の茶杓とは趣が少し異なり、利休写しを思わせる作行きです。面取りの筒に墨で「宗句参 古織部」と書かれています。いわゆる贈筒で、古田織部が宗句すなわち前田玄以に贈った茶杓です。

(詳細は本文にて・・・) 


ZIPANG TOKIO 2020「 最高の魅力『日本文化伝統の薫り』徳川御三家筆頭尾張徳川家の徳川美術館 」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2570027



徳川美術館心空庵及び餘芳軒

四畳半本勝手の茶室心空庵と、その東側の十畳広間を中心とした餘芳軒からなる。心空庵は茶室に三畳の水屋と矩折の腰掛待合を付ける。材木商を営んだ大寶正鑑の設計になり、霧島スギや神代材などの銘木や奇木を多用する。数寄屋の趣向を凝らした近代和風建築。


徳川美術館 千利休 泪の茶杓 

天正19年(1591)2月、豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休が自ら削り、最後の茶会に用いた、と伝わる茶杓です。茶会後、古田織部に与えられ、織部は長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられています。

今年は利休生誕500年にあたります。堺の商家に生まれ、戦国の武将たちと相まみえながら茶の湯の道に生きた利休に思いを馳せて・・・

(詳細は本文にて・・・)


昭和62年5月、(約40年以上前のお話です)

尾張徳川家21代当主 徳川義宜氏                   @鎹八咫烏


尾張徳川家21代当主 徳川美術館(前)館長 徳川義宜氏を訪ねて

ZIPANG-6 TOKIO 2020 尾張徳川家21代当主 徳川義宜氏に聴く!徳川家康の考えた『お茶の作法と演能』とは
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/37067472/



尾州徳川家御用窯 唐三郎窯


尾州徳川家御用窯 唐三郎窯

唐三郎窯の由来

尾州徳川家御用窯

慶長十五年二月、十九代加藤唐三郎景貞の時御用窯屋として召出され、御用を勤む。このとき苗字帯刀を許され、屋敷、窯場、工場等々の地を賜る。 又尾張城下に窯を建てお庭焼きを勉める。これを世に御深井焼と云う。 爾後赤津に於いて御高十五石を代々受領する。これから以降廃藩まで代々御用をつとむ。

御深井焼(おふけやき)とは

瀬戸は、やきもの文化が1000年続く焼物の産地です。 やきものの代名詞である「せともの」は、瀬戸市の焼物から名付けられています。 『御深井焼(おふけやき)』とは、尾張徳川藩の御用窯がおかれた 名古屋城内の御深井丸にちなんで名づけられた焼き物です。 灰釉調の釉薬(うわ薬)に線刻、印花、貼付などで装飾を加えた、とても上品なものが多い。


                  茶道具


ZIPANG TOKIO 2020「尾州徳川家御用窯 唐三郎窯 三十一世 加藤唐三郎作品」
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お寺ステイ~日本の伝統を学ぶ外国の人たち~


高山善光寺 茶席 外国の人達に人気の日本のお茶、伝統とセレモニー


高山善光寺 日本庭園の大きな岩の上で座禅を組み瞑想に耽る外国の人たち


日本中、此処彼処で失われてしまった古い町並や伝統技術、そして受継がれて来た伝統文化に生活文化・・・ まさに日本人は何処へ行ってしまったのか……と長老達は嘆き、この儘ではイカンと答えを出す前に、この度のコロナ騒動が起こりました。新型コロナウイルスはそんな悠長なものではなく、待った無し。いきなり日本列島を巻込み、いつ感染するか、加害者になるか?被害者になるか?それすら分からない自粛生活を余儀なくされましたね?漸く日本のピークは越えたようですが、世界的には目途が立っていないようです。

そして人々は過去の経験則からパンデミックの後には必ず、「新時代への転換」「世界が変わる」という史実から如何にも納得づくで見え見えの答えを導き出しました。

それが、先ずは「三密」でした。それが直に「在宅ワーク」→「テレワーク」→「オンライン授業」→「オンライン会議」へと繋がりました。

しかも、これが大企業にとっては実に都合よく出来ていて、設備投資の節約、人員削減、対被雇用者の健康福祉、通勤、出張手当、安全管理、等々の節減に繋がります。メディアもこの風潮が恰も新時代の新生活様式であると迄、囃し立てています。これは飽くまでも災害中の暫定的措置であって、将来五感を備えた人間にとって、計り知れない弊害が伴う筈です。

そんなシミュレーションも無しに、余りにも安易なレールを敷いて走り出しています。

さて、こうしたバーチャルな新生活様式が流行る一方で、近い将来、人々はきっと気付く筈です。何かが足りない!いや、それどころか、いつしか人間関係が損なわれ、人としての"思い遣り"や、 "おもてなし" の心が欠けるとどんな社会に変貌するでしょうか?そうした心を持つのが日本人なのです。そんな心の発達はリアルな幼少期より身につくものなのですから。

日本固有の風土地理環境が、日本人固有の美意識や感性を育ててくれたのです。

さて、マイナーなお話でしたが、これは前置きでして、日本には未だ未だ生きた伝統文化が残っていますよ。

北アルプスの大自然を背景に伝統が息づく町。この山里でしか経験できない町として、数多くの外国人を惹き付ける飛騨地方、そして飛騨高山があります。

町を流れる宮川のせせらぎ、路地を吹き抜ける風や、リュックを背負った旅人たちの石畳に伸びる影、 紅がら格子越しの隙間から見える職人たちの背中、軒並から漏れる暮らしの灯り、生活者の日常と旅行者の非日常が交差する町。

この町で100年以上の歴史を刻んで人々の営みを見守り続けてきた「高山善光寺」 時代の変化という大きな風の前で、まさに消えようとしていたこのお寺の灯を地域のみなさまと共に守っていきたい。先人たちの遺志を引き継ぎながら・・・

この町の魅力を世界へ発信することそして、いままでのお寺がそうであったようにさまざまな人々が交流し、学び合い、癒されるような開かれたコミュニティとして「高山善光寺」を蘇らせることこそみんなの願いなのです。


高山善光寺 囲炉裏の間 夜ともなると車座になり色々な国の人たちが集い交流が始まる
今や、お寺ステイは外国の人たちの日本での楽しみの一つであり、伝統とセレモニーを学ぶ拠点となりつつある・・・


飛騨高山 善光寺宿坊に泊まる外国の人たち

ZIPANG-4 TOKIO 2020 ~海外から人気の山里 飛騨〜 そしてその日本文化に最も疎い私達日本人【お寺ステイ】(2)
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ZIPANG-7 TOKIO 2020

これまでの、日本の精神文化と国土の美しさについて再発見に加えて その1. 全世界との情報の共有化 その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重! その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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