企画展「《明日の神話》と《太陽の塔》」を11月29日より開催 同時期に構想された“最大の絵画”と“最大の彫刻”に迫る
《明日の神話》と《太陽の塔》
2023年11月29日(水)〜2024年3月10日(日)
企画展ご挨拶
2023年10月〜11月、15年前に東京・渋谷駅に設置された《明日の神話》に対するはじめての大規模改修が行われました。数年掛かりで実施する改修計画の第Ⅰ期にあたる本年は、40日間をかけて全14枚のうち右から4枚を修復。この大作を次の世代に継承する取り組みがはじまったのです。
この壁画のアウトラインがはじめて形になったのは1967年9月。2ヶ月におよぶ中南米への取材旅行から帰国した直後のことでした。岡本太郎は中南米を旅するなかでアイデアをあたためたわけですが、じつはもうひとつ、まったく別の作品も同時に構想していました。
それが《太陽の塔》です。こちらも旅先のメモ用紙にスケッチを重ねながら精度を高め、帰国したときにはほぼ完成形に到達しています。《明日の神話》と《太陽の塔》は、ともに中南米を行脚するなかで誕生したものなのです。
その後、両者は現実の制作プロセスに移行し、1969年9月〜1970年3月の半年間のあいだに相次いで完成します。かたや幅30mの大壁画、かたや高さ70mの巨大パビリオン。いずれも一般美術のスケールをはるかに超える社会的プロジェクトとして遂行されたもので、岡本太郎のプロデューサーとしての力量がいかんなく発揮された成果でもありました。
《明日の神話》と《太陽の塔》は、同時期に制作された “最大の絵画”と“最大の彫刻”というだけでなく、出生から完成まで絶えず併走していたという点においても、まさに「双子」なのです。
《明日の神話》改修プロジェクトのキックオフを記念する本展では、岡本芸術を代表/象徴するこの二作品をとりあげ、その関係を概観していきます。
さらに、1962年に池袋駅前に出現し、わずか1ヶ月半で姿を消したクリスマスツリー《メリーポール》の1/8モデルもお目見えします。当時の資料をもとに新たに制作したもので、もちろん初登場です。
岡本太郎記念館館長 平野暁臣
岡本太郎とは
岡本太郎1911〜1996→
岡本太郎�手の目 撮影者・美術出版社・酒井啓之
【1】パリが生んだ異端
〈1-1〉 極東の日本から世界の芸術の中心に
1929年、岡本太郎は18歳でパリに渡った。日本から遊学する画家達が日本人だけで固まり、帰国後の凱旋展を夢見てお定まりの風景画を描いている姿に失望した太郎は、フランス社会で自立したいと考え、私学の寄宿生となってフランス語を磨き、西洋の教養を身につけていく。やがてモンパルナスにアトリエを構え、1940年にパリを離れるまで10年以上にわたって1930年代のパリで唯一無二の経験を重ねた。
〈1-2〉 純粋抽象からシュールレアリスムへ
1933年、「アプストラクシオン・クレアシオン協会」に最年少メンバーとして参加。「空間」「コントルポアン」などの連作を発表。1937年、サロン・デ・シュールアンデパンダンに「傷ましき腕」を出品。純粋抽象と決別し、同協会を脱退する。一方、同作をアンドレ・ブルトンが高く評価、翌年の第一回国際シュールレアリスト・パリ展に招待する。エルンスト、ジャコメッティ、マン・レイ、タンギーらシュールレアリストとの親交が深まる。岡本太郎は二つの前衛芸術運動の最先端をともにリアルタイムで体験した希有な芸術家なのである。
〈1-3〉 ミュゼ・ド・ロムでマルセル・モースに学ぶ
1938年、パリ大学で哲学を学んでいた太郎はミュゼ・ド・ロムを見て衝撃を受け、民族学科に移籍。レヴィ=ストロース、ミシェル・レリスらとともにマルセル・モースに学び、一時は筆を折って研究に没頭する。このときの体験が「芸術は商品ではない」「芸術は無償、無条件であるべきもの」「芸術とは全人間的に生きること」という太郎の芸術観を醸成した。1975年、太郎はジャン・ルーシュのドキュメンタリー作品「マルセル・モースの肖像」に出演。
〈1-4〉 バタイユとの邂逅
一方、エルンストに誘われた政治集会「コントルアタック」でジョルジュ・バタイユと出会い、その演説に深く共感。以後、親交が深まり、「社会学研究会」に参加。ついには秘密結社「アセファル」に加わる。戦後の作品「夜」「電撃」はこのときのサンジェルマンの森での秘儀体験がモチーフといわれる。レリス、ロジェ・カイヨワ、ピエール・クロソウスキー、パトリック・ヴァルドベルグら、世界的な知性と親密な交友を結ぶ。
〈1-5〉 ただひとりの日本人
抽象からシュールレアリスムへ。芸術から哲学へ。抽象論理の世界から人間学のフィールドへ。さらには呪術的な秘密結社へ。岡本太郎は、20世紀芸術の新たな潮流の胎動に生々しく立ち合い、同時に30年代パリが生んだ知の最前線を全身で浴びた、たったひとりの日本人である。それどころか、こんな人物は世界を見渡してもおそらく例がないだろう。岡本芸術に通底する美意識は「自由」「誇り」「尊厳」だ。太郎の肉体にそれを刻んだのは30年代のパリだった。
【2】たったひとりの闘い
〈2-1〉 ゼロからの出発
1940年、岡本太郎は戦時体制下の日本に帰還する。間もなく初年兵として徴兵されて戦場へ。自由の国・フランスから対極的な軍国主義の闇に投げ込まれる。戦後、中国での収容所暮らしを経てやっと辿り着いた青山の家は空襲で焼け野原になっていた。アトリエもパリ時代の作品も、すべてを失った。待っていたのは文字通りゼロからの出発だった。
〈2-2〉 “ガラパゴス”での闘い
活動を再開した岡本太郎は新聞紙上に「絵画の石器時代は終わった」と宣言。ただ鑑賞するだけの「美術」の時代は終わった、西欧の芸術精神が獲得した自由の恩恵を受ける時代が来たのだ、と続け、長老中心の権威主義的な日本美術界にひとり宣戦布告する。ワビ・サビ的美学に支配されていたガラパゴス的美術界に強烈な原色を叩きつけるとともに、出版や講演などの啓蒙活動も積極的に開始。芸術とはなにか、アヴァンギャルドとはなにか、創造とはなにか…。革新的な名著を次々と発表し、挑発的な言動で社会に問題を提起していった。
〈2-3〉 対極主義
「これからのアヴァンギャルド芸術の精神には、非合理的な情熱のロマンティスムと、徹底した合理的な構想が、激しい対立のまま同在すべきである。この異質の混合や融和を私は考えない。二つの極を引き裂いたまま把握する」。「対極主義」と名付けたこの芸術思想を引っさげ、岡本太郎は次々と問題作を社会に送り出す。日本での活動再開後すぐに「重工業」「森の掟」などの大作を続々と発表し、アヴァンギャルドのリーダーとして美術界に旋風を巻き起こしていった。
〈2-4〉 日本の“発見”
一方、作品制作の傍らで、「日本のオリジン」「日本の原風景」の探索に傾倒し、革命的な仕事を成し遂げていった。「縄文の発見」がその代表である。考古学の分析対象でしかなかった縄文土器に美を見出し、芸術のフィールドに引き上げるとともに、その精神のありようを称賛した。さらに日本全国を縦断取材し、民族学の視点から各地に息づく日本の原風景を読み解いていった。近年、彼が撮影した写真は当時の貴重な民俗資料として再評価され、各地の伝統・風俗をテーマにした数々の文化論も再び脚光を浴びている。彼が発見した日本の原風景が普遍的な世界とつながっているからだ。
〈2-5〉 「多面体」として
1950年代に入ると、岡本太郎は次々と表現領域を拡げていった。彫刻、レリーフ、壁画、舞台美術、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、書、建築、家具、インテリア、写真、評論、パフォーマンス……etc。銀座の夜空にヘリコプターで絵を描いてみせたのも、日本ではじめて飛行船に絵を描いて飛ばしたのも、岡本太郎だった。岡本太郎は、日本の芸術家では類を見ない「多面体」だった。
【3】万博史の異物
〈3-1〉 史上最大の万博
1970年、高度経済成長に湧く日本で万博が開かれた。〝先進国クラブ〟への入会がかかった一世一代の国家プロジェクト。そのテーマ展示プロデューサーに選ばれたのが岡本太郎だった。彼は高さ70mの巨大なモニュメント「太陽の塔」を会場中央に突き立てる。その強烈かつ異様な光景は日本人の脳裏に強烈に刷り込まれ、日本の芸術作品のなかで最大・最強のアイコンになった。同時代を生きた日本人で岡本太郎と太陽の塔を知らぬ者はいない。大阪万博は6400万人の入場者を集めたが、これは万博史上の最高記録で、いまも破られていない。
〈3-2〉 反博の巨像
19世紀半ばに誕生して以来、万博は近代主義を体現するものとして「技術と産業の進歩が人類を幸せにする」をメッセージしてきた。だが太陽の塔はそれを真っ向から否定している。太古の昔からそこに立っていたような土俗的な造形は、〝近未来都市〟の風景をひとりでぶち壊すものだ。岡本太郎は万博を支える安直な進歩主義にひとりNon!をつきつけた。前衛が国家に加担するのかと批判された彼はこう言って笑った。「反博?なに言ってんだい。いちばんの反博は太陽の塔だよ」。太陽の塔は万博史に残るただひとつの異物だ。
〈3-3〉 反モダニズム・反伝統主義
岡本太郎は「日本人の価値基準は二つしかない。西欧的近代主義と、その裏返しとしての伝統主義すなわち〝わび・さび〟的日本調だ」と言った。「その両方を蹴飛ばして、原始と現代を直結させたような、ベラボーな神像をぶっ立てた」。それが太陽の塔だ。まさしく対極主義の実践だった。彼は「五重の塔ではない日本。ニューヨーク、パリの影でない日本」をつくろうとした。岡本太郎は日本人を奈良時代から続く文化コンプレックスから解放しようとしていたのである。
〈3-4〉 ミュゼ・ド・ロムへの思い
一方、岡本太郎がプロデュースしたテーマ展示も異端だった。「人類の進歩と調和」というテーマを解説する職責を担っていたはずなのに、テーマ展示の予算とスペースのほとんどを生命の誕生から原始社会の営みまでを描くことに費やしたのだ。他館が未来技術でプレゼンスを競っているときに、生命の誕生、祈り、渾沌などを謳い、世界から仮面や神像を集めて呪術的な展示空間を現出させた。「万博の価値観なんか信じるな」「人間の根源に帰れ」というメッセージを送るためだった。そして裏にはもうひとつの動機があった。日本版ミュゼ・ド・ロムをつくることだった。実際、万博から7年後に、このときの収集資料がベースになって国立民族学博物館が誕生した。
〈3-5〉 愛された前衛
太陽の塔は大阪万博のシンボルとなって日本人の脳裏に深く刻まれた。当時を生きた日本人で岡本太郎を知らぬ者はいない。大衆に愛された太郎はその後も全国で数々のパブリックアートを手掛け、1975年には撤去されるはずだった太陽の塔の永久保存が決まった。市民の保存運動が実を結んだのだ。岡本太郎は日本でただひとり大衆にリーチした前衛芸術家だった。
【4】 若者たちの太陽
〈4-1〉 いま、ふたたび岡本太郎ブームに
1996年、岡本太郎は84年の生涯を閉じた。パーキンソン病を患った晩年には活動の停滞を余儀なくされ、多くの著書も絶版になっていた。だがこの状況は没後わずか数年で一変する。1998年には岡本太郎記念館が、翌1999年には出身地の川崎市に岡本太郎美術館が開館し、絶版本の復刊と併せて関連書籍も次々と刊行されている。近年では、岡本太郎を扱った展覧会は全国で20~30本/年、新聞・雑誌等の掲載件数は1500~2000件/年に達し、関連書籍は100冊にのぼる。メディアもこの特異な現象に注目し、「いまなぜ岡本太郎なのか?」をテーマとする特集記事が相次いでいる。
〈4-2〉 若者たちの太陽
この岡本太郎ブームの中心にいるのは、リアルタイムの彼を知らない若者たちだ。岡本太郎の強烈な作品や言葉が、眼の前に立ちはだかる閉塞感を切り裂いてくれるものと映っているのだ。「元気をもらいました」「これで先に進めます」「壁にぶつかったらまた来ます」……etc。記念館のスケッチブックには若者たちのこうした言葉で溢れている。彼らにとって岡本太郎は「過去の偉人」ではなく、未来に向かってともに生きていく〝ライブな存在〟なのである。いま、「岡本太郎という生き方」に対する共感の輪が広がっている。こんな芸術家はこれまで日本にはいなかったし、いまもいない。
〈4-3〉 二つのミュージアム
このムーブメントを支えているのはふたつのミュージアムだ。岡本太郎記念館は、彼が40年以上にわたって創作の拠点にしていたアトリエ・住居をそのまま公開したもの、川崎市岡本太郎美術館は新設の公立個人美術館だ。前者は規模は小さいが生々しい太郎の気配に満ちていて、若者たちの聖地になっている。一方、後者は5000㎡の大規模美術館で、岡本作品のほぼすべてを収容し、高さ30mの巨大モニュメント『母の塔』も設置されている。両者は補完しながら岡本芸術を社会に送り出している。
〈4-4〉 「明日の神話」の奇跡
太郎をめぐるこのムーブメントが本物であることを証明する出来事が実際に起きた。1969年にメキシコで描かれたまま行方不明になっていた巨大壁画『明日の神話』(30m*5.5m)が2003年秋に発見されたのだが、再生を願う多くの人々のサポートにより、驚くべきスピードで復活したのだ。万の単位の人々から浄財が集まり、修復完了後の公開には50日の会期に200万人が詰めかけた。壁画は2008年に東京・渋谷駅に恒久設置され、若者の街の新たなシンボルとして大きな話題になった。
〈4-5〉 2011年が「生誕100年」
2011年に生誕100年を迎えた。大規模な回顧展をはじめ、数々のイベントが予定されている。岡本太郎をめぐるムーブメントがさらに次のステージにジャンプすることは間違いないだろう。
太陽の塔内観模型(2018年バージョン)
岡本太郎 1971作品
■開催概要
会期 : 2023年11月29日(水)~2024年3月10日(日)
開館時間 : 10:00~18:00(入館は17:30まで)
休館 : 火曜日、年末年始(12月28日~1月4日)及び保守点検日。
会場 : 岡本太郎記念館(東京都港区南青山6-1-19)
アクセス : 銀座線・千代田線・半蔵門線『表参道』駅より徒歩8分
入場料 : 一般 650円/小学生 300円
余 滴
岡本太郎画伯を訪ねて(抜粋)
岡本太郎創作 久国寺 梵鐘(名古屋)
なんだ、これは!
岡本太郎画伯「僕は以前、名古屋の久国寺という禅寺に頼まれて梵鐘をつくったことがあるんだけど、その鐘にはニョキニョキと何本も角が突き出ていて、この時も最初は随分いろいろ言われたんだ。
『本当に鳴るのか。』と、僕は別にならなきゃ鳴らないで中にカセットテープか何か仕掛けておけばいいって思ってたんで、既成の形を無視して自分の思うままにまず、小型の鐘をつくった。
それを桑名の釣鐘師に見てもらったんだ。はじめは『鳴りませんよ』と言っていた釣鐘師が、いざ、鋳造に取りかかってそれが完成した時、『鳴りました。今まで聞いたことのない、とても不思議な音色です。』と言ってきた。
芸術家 岡本太郎 ©鎹八咫烏
僕は、何かを創ろうとする時に、人の目なんか気にしない。他人を否定し、自分をも否定してこそ、その瞬間瞬間にエネルギーが燃えるんだ。
人に好かれるものをつくろうと思っちゃダメだ。何もできない。
見た時に『なんだ、これは。』と思われるようなものをつくらなきゃ。」
昭和61年の11月頃に訪問取材した時の岡本太郎画伯の言葉が甦ってきました。(合掌)
建築家 丹下健三 設計 香川県庁舎 ©森美術館
以前にもご紹介いたしましたが・・・
ここで、僭越ですが当サイトZIPANG TOKIO 2020 立上げに際して、多大な影響を頂いた亀倉雄策氏から当時青二才だった私がお聞きした想い出話の一端をご紹介しましょう。
岡本太郎 旧東京都庁ロビー作品 @鎹八咫烏
亀倉氏曰く…「丹下(健三)と岡本(太郎)と僕は、謂わば三竦みなんだ、丹下は岡本に弱く、岡本は僕に弱く、僕は丹下に弱い。だから、新東京都庁舎(現東京フォーラムの前身)の移転の折にロビーにあった岡本の作品、陶壁画をどうするかで、なかなか決まらなかった。
丹下は、心では岡本の芸術を認めていたし、岡本も建築家としての丹下を認めていたんだ・・・丹下は岡本の作品を残したいと思っていたので、岡本が直接丹下に一言残してくれと言えばよかったんだけれど、丹下はその言葉を待っていたから、しびれを切らして僕のところに来て、君から岡本に話して僕(丹下)のところに来るように進めてくれと…
グラフィックデザイナー 亀倉雄策 ©鎹八咫烏
僕は丹下に言われると何故かスッと聞いてしまうんだね、丹下は岡本が僕に弱いことを感じていた…、だから陶壁画が期限切れで破壊される前に岡本から直接本心を聞きたかったのだ・・・しかし岡本の返事は『丹下の勝手にしてくれだった。』でも、心では二人とも残したかったに違いない、僕もだったが・・・」(合掌)
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
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アーカイブ リンク記事をご覧ください。
建築家 丹下健三 設計 香川県庁舎(夜) photo 小池 大
令和4年2月9日(水)に香川県庁舎旧本館及び東館(以下「県庁舎東館」という。)が国の重要文化財に指定されました。戦後に建てられた庁舎としては全国初です。
県庁舎東館は、建築家・丹下健三氏の設計により1958年に竣工しました。柱や梁の軸組構造などにより、日本の伝統的な意匠を鉄筋コンクリートで表現し、県民に開かれた庁舎とするためにピロティやロビーなどを配置した手法が評価されました。
さらに、庁舎とともに製作された南庭の石灯籠、受付カウンター、椅子などの家具類57点も建造物の価値と一体となして重要なものとして、重要文化財の一部に指定されています。
また、令和元年12月に耐震工事を完了しています。今回の重要文化財指定により、全国の建築ファン、そして香川県民に親しまれる庁舎として機能し続けていくことでしょう。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-6 TOKIO 2020 香川県庁舎旧本館及び東館が、令和4年2月9日(水)「国の重要文化財」に指定 戦後の庁舎建築としては全国初~丹下健三氏 設計~
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/36604757/
建築家 伊東豊雄 設計 みんなの森 ぎふメディアコスモス
みんなの森 ぎふメディアコスモスは、「知の拠点」の役割を担う市立中央図書館、「絆の拠点」となる市民活動交流センター、多文化交流プラザ及び「文化の拠点」となる展示ギャラリー等からなる複合施設です。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「なんだ、これは!!岡本太郎画伯もきっと驚く『みんなの森 ぎふメディアコスモス』(後編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3534047
大阪万国博覧会「太陽の塔」岡本太郎画伯制作
バルセロナ・グエル公園の市場として作られたドーリア式の建築様式の列柱。86本の柱の天井部分に、ガウディ発明による破砕タイルの手法が活かされており、現地を訪ねた岡本太郎画伯は、感動して、その後制作した大阪万国博覧会の太陽の塔の参考としたと言われています。
絵を描き、原稿を口述し、彫刻と格闘し、人と会い、万国博の太陽の塔をはじめ巨大なモニュメントや壁画など、あらゆる作品の構想を練り、制作した場所。
彼のエネルギーが今も満ち満ちている。
更に言えば、ここは戦前は青山高樹町三番地。
岡本一平・かの子・太郎の一家が永く暮らし、一家でヨーロッパへ旅立ったのもこの地からだ。旧居は戦災で焼失した。
戦後、友人の坂倉準三の設計でアトリエを建てた。
ル・コルビュジェの愛弟子だった坂倉は太郎の求めに応じ、ブロックを積んだ壁の上に凸レンズ形の屋根をのせてユニークな建物を作った。当時話題をよんだ名建築だ。
岡本太郎の作品は一人の人間の枠を超えて多彩にひろがる。そのすべてがここから閃き出た。膨大なデッサンやエスキース、彫刻、また戦後文化のうねりを伝える資料の山。
「岡本太郎の1世紀」ご期待ください。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-6 TOKIO 2020「岡本太郎の1世紀」開催
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/35644213
東寺 瓢箪池に浮遊する呼応するランプ
延暦13年、794年。桓武天皇により築かれた平安京は、時代の最先端をゆく都市であった。
都の正門、羅城門から北へまっすぐに朱雀大路が伸び、その先に壮麗な大内裏(だいだいり)があり、羅城門を挟んで、両翼を広げたように建立されたのが、東寺と西寺である。
東寺は国の東の王城鎮護、西寺は国の西の王城鎮護を担う、官寺であった。緑色をした緑釉瓦(りょくゆうがわら)に朱の柱、白壁の大伽藍(だいがらん)は、新しい首都を象徴するものであった。
平安遷都より29年目の冬、桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で密教を学んで帰国した弘法大師空海に、東寺を託した。ここに真言密教の根本道場(こんぽんどうじょう)東寺が誕生したのであった。
チームラボは、京都府京都市にある世界遺産・東寺にて「チームラボ 東寺 光の祭 -TOKIOインカラミ」を開催する。創建からおよそ1200年の歴史を持ち、現存する唯一の平安京の遺構である東寺を、チームラボは、人々の存在によって変化するインタラクティブなアート空間に変える。会期は8月6日(金)から9月19日(日)まで。
世界遺産の東寺は、日本一の高さを誇る木造塔である国宝の五重塔があり、創建からおよそ1200年で、現代において唯一残る平安京の遺構である。
正式名称は「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と言う。
チームラボの行う「Digitized City」というアートプロジェクトは、非物質的であるデジタルテクノロジーによって、建造物や場を物理的には一切変えることなく、場がそのままアートになるというプロジェクトである。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 古今折衷 創建から約1200年の世界遺産・東寺をインタラクティブなアート空間に。8月6日(金)から
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/19161787
※現在、2200件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。
新サイトの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/
最新の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/
最近の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/
250件ほどの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/
235件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/
200件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/
615件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
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