行くぜっ!にっぽん
(鎹八咫烏の考えるこの台詞の似合う幕末の日本人ベスト5とは⁉)
坂本龍馬像(桂浜) 編集局イメージ
坂本龍馬
『世に生を得るは事を為すためにあり」
高杉晋作
『真あるなら今月今宵あけて正月だれも来る』
近藤勇
『事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心(すめらみこころ)』
野村望東尼
『ひとすじの道を守らばたおやめもますらおのこに劣りやはする』
沖田総司
『動かねば闇にへだつや花と水』
~「和食」のユネスコ無形文化遺産登録10周年!~
農林水産省は、本年12月4日(月曜日)に和食がユネスコ無形文化遺産に登録されて10周年を迎えることから、新たな発想で「和食文化の魅力」を若者・子育て世帯に発信していく「行くぜっ!にっぽんの和食」キャンペーンを実施します。
羽黒三山~修行の後に精進料理を~
羽黒三山 出羽神社精進料理
石川県能登 大本山總持寺祖院 雲水
雲水はん一日お勤めご苦労はんだす!大本山總持寺祖院が心を込めての精進料理お食べやす
岐阜市 正法寺「大仏殿」
なんとな!どデカイのを~「そうや、和尚はんが美濃和紙でこさえてくれはったんよ、なんたって日本一やさけのを。」「ところでお兄さん方、お昼はまだかいのう?」まだよ!
「オアシは持ってはるんかいのを?」なんぼや知らんけんど、ぎょうさん有るで!
「そうでっか。おおきに~おおきに、ワシがこさえた精進料理ご利益あるさけ食べてきなはれ」大仏様を拝見しておりましたらこんな会話が聞こえてまいりました。
『天の声:ホンマかいな⁇』
岐阜市 大仏殿 正法寺 精進料理
武州 竹寺
武州 竹寺の名物・竹づくし 秋の精進料理の一部です
精進料理も良いけんど、他のメニューないんかい!
おおきに…すんまへん
日本遺産 伊勢「斎宮」明和町 斎王
平安時代の「斎王の食事」を当時の味付けで復元した弁当。
ご飯は「黒米」を使用し、伊勢湾で捕れた地元の鮮魚や野菜、「サメのたれ」の一夜干しなどの食材がたっぷり。(要予約)
他には!
石川県 山中温泉の名所、鶴仙渓川床清流を眺めながら・・・
山中温泉の名所、鶴仙渓川床清流を眺めながら川床弁当をいただく・・・
確か、和食の鉄人「道場六三郎」はんは、山中温泉のお生まれやから川床のために何か作ってはったんと違うかな⁈それ出しなはれ…早う!
「お食事をお召し上がりになられてからお出ししますよってに…」そうか⁉
まだ、あるやろ!
「へい!おめでたいところがおます。料理長からのメッセージつきでっせ、旦那」
日本の宿古窯のおせちは、冷凍おせちが主流となっている中、古窯では冷蔵おせちにこだわり、食材の持つ旨味を最大限に引き出しています。
一段重には、海老のように腰が曲がるまで長生きできるようにと願いが込められており、伊勢海老や古窯オリジナルの玉蒟蒻田舎煮など19品が入っております。
二段重には、黒豆や栗金団、数の子など定番のお料理のほかに、上山名産の干し柿を使った干し柿なますを入れております。
三段重には、山形牛香味焼き・鮭の昆布巻き・山形名物のいも煮が入っており、山形名物がいっぱいに詰まった重箱おせちとなっております。
日本の宿古窯が丹精を込めて作ったおせちです。
郷土料理と正統派のおせちを組み合わせた、古窯ならではのおせち。
是非ご賞味下さい。
山形 日本の宿 古窯 三段重おせち
おう!目出度いのう。まさに伝統や、このへんで勘弁したろやないかい・・・
本キャンペーンを通じて、広く和食文化への関心を高め、和食の保護・継承に関する機運を盛り上げていくとともに、我が国が世界に誇る和食文化を次世代に繋げていく活動を促進する「きっかけ」をつくってまいります。
目的
本年12月4日(月曜日)に「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産登録10周年を迎えます。これを契機に、和食文化の保護・継承に関わる企業・団体と協力して、和食文化の魅力を様々な視点から若者・子育て世帯に発信し、和食文化に対する興味・関心を高める「行くぜっ!にっぽんの和食」キャンペーンを立ち上げます。
本キャンペーンを通じて、和食文化の魅力や次世代への継承の重要性を伝えるメッセージを発信することで、我が国が誇る和食文化を次世代に繋げていく活動を促進する「きっかけ」をつくることを目的としています。
実施期間
令和5年12月4日(月曜日)から令和6年12月3日(火曜日)まで
キャンペーンの内容
(1)賛同者の募集及び和食の保護・継承活動の促進
本キャンペーンの趣旨に賛同し、本キャンペーンに参加する企業、団体または個人を募集します。賛同者は、以下のいずれかの活動の実施を宣言することでキャンペーンに参加し、和食文化の保護・継承活動の促進に取り組んでいただきます。
ア 和食文化の魅力を様々な視点(「すごい!」、「かっこいい!」、「おもしろい!」、「のこしたい!」等)から国内外に発信する活動
イ 地域での伝統的な食文化の保護・継承活動やこれを支援する活動
ウ 和食文化継承リーダー等地域や学校で子どもたちや若者・子育て世帯に和食文化を伝える者に対して、活動の場を提供する活動
エ その他和食を食べる機会の増加につながる活動
(2)ロゴマークの作成
キャンペーンの認知度を高め、賛同者の連帯感を高めるため、ロゴマークを作成しました。賛同申請承認後に、賛同者へロゴマークを直接配布し、賛同者のロゴマークを使用した活動を促進します。
【特設サイトの開設】
「行くぜっ!にっぽんの和食」キャンペーン特設サイトを開設(キャンペーン実施期間の1年間を予定)。特設サイトには以下のコンテンツを掲載予定です。
ア 賛同者による活動宣言(企業ロゴ×今後の活動)
イ 応援メッセージ
ウ 推しの味噌汁グランプリ企画等各種企画の実施
エ 「うちの郷土料理」等を活用したレシピ配信及び和食献立等の楽しめる和食ネタの配信
オ 和食文化の各種情報を集めたまとめサイトの構築 等
【参加方法】
キャンペーンに賛同される場合は、キャンペーンの賛同申請フォームにアクセスし、賛同申請等を行ってください。詳細は、事務局にお問い合わせください。
【キャンペーン賛同申請フォーム】
https://questant.jp/q/washoku10th_supporter
キャンペーンに関するお問合せ先
「行くぜっ!にっぽんの和食」キャンペーン事務局
E-Mail:washoku10th★gnavi.co.jp
メール送信の際は★を@に置き換えて送信してください
お問合せ先
農林水産省 新事業・食品産業部外食・食文化課食文化室
担当者:神林、増澤、向川
代表:03-3502-8111(内線3085)
ダイヤルイン:03-3502-5516
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
東北農政局 〒980-0014 仙台市青葉区本町三丁目3番1号 電話:022-263-1111
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
出羽三山神社
出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山の総称で明治時代までは神仏習合の権現を祀る修験道の山であった。明治以降神山となり羽黒山は稲倉魂命、月山は月読命、湯殿山は 大山祇命、大国主命、少彦名命の三神を祀るが、開山以来、羽黒派古修験道は継承され、出羽三山に寄せる信仰は今も変わらない。
御開山は千四百年余前の推古天皇元年(593年)、第三十二代崇峻天皇の御子蜂子皇子が、蘇我氏との政争に巻き込まれ、難を逃れるために回路をはるばると北上し、出羽国にお入りになりました。そして三本足の霊烏(れいう)の導くままに羽黒山に登り羽黒権現の御示現を拝し、山頂に祠を創建され、次いで月山、湯殿山を次々と開かれました。その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄や修験道の祖ともいわれる役ノ行者、真言宗の開祖空海、天台宗の開祖最澄などが来山し修行を積んだと伝えられています。
羽黒派古修験道
修験道の概念
日本で発生し成立した山の宗教。神霊の宿る山岳を行場とし、自然崇拝を根幹とする呪術的な日本固有の信仰 (古神道)を、ありのままの自然を究極の仏の世界と捉え、山の大自然の中に身を投じ自然と一体化する(密教)という世界観によって体系づけ、全てに仏性がある(法華経)という自覚と、往生思想(浄土教)を融合し、呪術(陰陽道)を用い、神仙術(道教)を駆使することによって、除災・招福・治病・延寿の呪禁力を発揮する宗教。
出羽神社 御神木(杉)と国宝・五重塔
五重塔(国宝) 羽黒山は、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心であっただけに、数々の文化財に富んでいる。山麓の黄金堂は重文に、山内の五重塔は国宝である。古くは瀧水寺の五重塔と言われ、附近には多くの寺院があったが、今はなく五重塔だけが一の坂の登り口左手に素木造り、柿葺、三間五層の優美な姿で聳り立つ杉小立の間に建っている。現在の塔は長慶天皇の文中年間(約600年前)庄内の領主で、羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられている。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「神霊の宿る信仰と修行の山 出羽三山神社 月山神社 出羽神社 湯殿山神社 」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1359250
出羽三山 月山神社本宮
羽黒修験道
修験道とは
はるか昔、日本列島に暮らしていた人々にとって、山は神の宿る聖域であり、子孫を見守る祖霊が鎮まるところと考えられていました。修験道は、そのようなおだやかな山岳信仰に根を下ろしながら、仏教とりわけ密教や道教などの影響を受けてかたちづくられました。修験道は中世以降、聖なる山に分け入って谷を渡り、山々を駈け、山に籠もり、山の神霊を我が身に宿す修行を重ねた山伏たちを通じて、人々に受け入れられてきました。日本の多くの霊山が信仰を集める中で、この東北の地におこったのが羽黒修験道です。
羽黒修験道は、四季の峰という季節ごとの修行を行う
羽黒修験道とは
日本海を望む出羽三山が四季折々の表情をみせるように、羽黒修験道は、四季の峰という季節ごとの修行を行いました。
その一つ、「秋の峰」では生まれ変わりの修行を実践し、生きながら若々しい生命をよみがえらせることができるという考えを確立しました。
それは中世にまでさかのぼる死と再生の儀礼を現在に伝える日本で唯一の修行といわれます。 修行者は、駈ける山々の風に揺れる草木一本に、動物に、自らに、森羅万象すべてに、宇宙のはたらきが生まれながら備わっているのをみます。
ここに認められる自然界の生きとし生けるものと共存し、生命の尊さを学びとり、互いを配慮するという考え方は、多くの人々の心に共感を呼び、さらに人の生きかたを深めることでしょう。
羽黒修験道は、はるかな眼差しと未来に伝えるべき豊かな可能性を宿しながら、今も出羽三山に鼓動しています。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「そびえる山の厳しさに山伏たちの姿が浮かぶ! 日本遺産認定 出羽三山」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1383261
和食とは?
「自然を尊重する」というこころに基づいた、日本人の食慣習である。
鶴岡市名刹玉川寺 国指定名勝 玉川寺庭園
和食文化の保護・継承
食文化は、その土地土地の自然と歴史を背景に育まれています。そして、我が国では南北に長い海岸線と山がちな地形、モンスーン気候による多雨と明確な四季という自然条件が、地域ごとに多様な食文化を生み出しました。 ここでは、このような日本の食文化について概観を説明するとともに、その保護・継承に向けた取組について紹介いたします。
和食文化の保護・継承について
食料産業局食文化市場開拓課和食室では、ユネスコ無形文化遺産に登録された和食文化の特徴や和食文化を継承するための取組等について解説する資料を作成しています。随時更新。
(詳細は本文にて・・・)
出羽三山 羽黒山斎館 精進料理「月うさぎ膳」
ZIPANG TOKIO 2020「ユネスコ無形文化遺産【和食】和食文化の保護・継承」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1601730
南陽市 熊野大社 雪光
南陽市の三大熊野に寄せて
我が国は多神教といわれていますが、どれ程のご神仏達が我が国に存在するのでしょうか?東洋経済ニュースのデータランキングによれば、全国には約18万件の宗教法人が存在し、その中でもダントツの 1位が八幡神社 (4809)、2位は稲荷神社 (2652)、3位が熊野神社 (2132) 4位神明社、5位諏訪神社…と続いておりました。
上に挙げた順位は、夫々の名前の寺社が全国に点在する傘下の分社、摂社、末社等迄も数えると、企業で言えば、本社に対する支社や支店や営業所がどれ程あるのかということになります。
而も名前の種類が多すぎて500件迄のデータで打留めでしたから、推して知るべし!日本は正真正銘、八百万の神々様の国ですね? そこで…本日の主題は山形にある南陽市の熊野大社のお話です。
山形にも熊野大社があると聞き、半信半疑で訪れたのは、15年くらい前だったでしょうか?でも、私はその前に熊野三山、即ち、熊野本宮大社を始め、速玉大社、那智大社のご参拝を行っておりましたから、その他の地方にあるものは、本物を凌ぐ程のものでは無いだろうと失礼千万な想像を廻らして居りました…
それに、三大熊野等と名乗ること自体、そもそも名高い熊野三山を前にしてその辺どう、折り合いをつけているのかしら?と益々、不遜な疑問を抱きながらのご参拝でした。 そこで調べますと、熊野三山とは (熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社=順に主祭神が夫々、 ①家都美御子大神、② 熊野速玉大神と熊野夫須美大神、③熊野夫須美大神)の御祭神を勧請された神社のことであるとされ、それ等を纏めて一体となったものが熊野三山なのだそうです。
そこで、三大熊野と呼ばれる場合には… ・熊野三山 (本宮 速玉 那智,各大社) ・熊野神社 (南陽市) : 山形県南陽市 ・熊野皇大神社 : 長野県北佐久郡軽井沢町 以上を総称して「日本三熊野」と呼ぶのだそうです。
そして、これが熊野信仰の中心となっているのだと聞けば、何と罰当たり私めは「ハハァ〜ッ」と平伏する羽目に。それにしても、すごい話です。日本で3番目に多い熊野神社系列の中の代表三役、三熊野ですぞ〜。
それ以上の驚きは、境内に漂う荘重且つ神秘的なそのユニークな佇まいにありました。それは元祖熊野三山とは違う別の何か?です。今も瞼に浮かぶのは東北ならではの茅葺き屋根の刈り上げ技術にあるような気がするのです。
それは入母屋造りの微妙な反りに対する曲線美へのこだわりでした。更にアクセントになっている拝殿真上の飾り屋根は唐破風と千鳥破風の二重重ねで、茅葺き屋根の美しさと豪華さを一層演出しておりました。
特に屋根の端が反リ上がる三角形の小口は茅の束がぎっし詰まった切り口部分で、最も難儀な処理技術を要する、曲線美の魅せ処です。それは見飽きない美しさでした。それに命を賭けた職人魂を感じたのです。
それにしても、日本人は古来より万物に魂が宿るとする感性豊かな人種でした。所謂、アニミズムの遺伝子が今も体質的に働いているのでしょう。どんな神様でも分け隔てなく、 お辞儀をしてしまう癖があるようです。節操がないというのか……
日本が平和で居られるのは多神教の所為とよく言われますが、その証拠として、戦前の住まいでは全国津々裏々何処の家でも神棚とお仏壇は同じ屋根の下に何ら矛盾もなく祀られていたものです。
初詣と結婚式は神前で、葬式と法事は仏前でやるものという当り前の風習がありました。
戦後になるとアメリカ文化がどーっと入ってきて、日本人の精神構造はガラリと変ってしまいました。
明治維新は「和魂洋才」が謳われましたが、第二次世界大戦後は「洋魂洋才」の風潮となり、これまで培った日本の伝統がいかにも時代遅れの古臭いものとして蓋をされて仕舞ったのです。
敗戦国日本の文化は先進国アメリカ文化に劣るという錯覚に陥ってしまいました。日本国民はあれ程お国の為にと、一丸となって「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」ー天皇陛下のお言葉ー通り巨大大国を相手に、 国土を守り、不屈の精神力で闘い抜いた筈なのに負けた途端、手のひらを反すが如く日本は必要以上にアメリカ一辺倒になりました。
アメリカ文化全てが憧れの対象でした。X`masには俄かクリスチャンに偽装しながら、教会でのお祈りはさておき、お父さん達は盛大にハシゴ酒で夜の街へ繰り出し、子供たちはサンタのプレゼントを心待ちにし、家庭では(当時はお父さん抜きの)ローストチキンと X`masケーキを頂く日になり、その風習が今や日本の伝統になりつつあります。
まあ、このように八百万の神の在す日本は、いかにも信仰心の厚い国民に見えて?世界から驚かれておりますが、後から浸透してきたバレンタインやハロウィンも同じことです。
仕掛け人は商業主義であり、踊らされていることにも気づかないのが、 我らお目出度い日本人でありましょう。戒律の厳しい一神教の国々には 真似の出来ない軽さと言いますか… 換骨奪胎的発想の国民性でしょうか?
戒律の厳しい一神教から見れば、凡そ節操のない忌まわしい存在に違いありません。
しかし、それが平和を保つ緩衝材になっているとしたら、 軽すぎる多神教も案外、一つの救いなのかもしれませんね? 紅山子
(詳細は本文にて・・・)
南陽市 熊野大社 月光
ZIPANG TOKIO 2020「南陽市の三大熊野に寄せて 日本で初めて結ばれた神様を祀る 日本三熊野『熊野大社』とは」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2053258
熊野本宮大社 証誠殿(神門より)
紀伊山地は本州最南端、太平洋に張り出す紀伊半島に位置し、標高1,000m~2,000m級の山脈が縦横に走り、年間3,000mmを超える豊かな降水量が深い森林をはぐくむ山岳地帯である。
紀伊山地は太古の昔から自然信仰の精神を育んだ地で、6世紀に仏教が伝来した以降、紀伊山地は真言密教をはじめとする山岳修行の場となった。中でも、山岳修行により超自然的能力を獲得することを目的として10世紀中ごろから11世紀代に成立した修験道は、特に大峰山系の山岳地帯を中心的な修行の場としていた。また、9~10世紀に広く流布した「神仏習合」思想(日本古来の神々は仏教の諸尊が姿を変えて現れたものとする日本固有の思想)の聖地としても信仰を集めていた。
さらに、10~11世紀頃の日本では「末法思想」(仏法が衰え世も末になるという思想)が流行し、死後に阿弥陀仏の居所である極楽浄土に往生することを願う「浄土宗(法然上人)」という仏教の教えが貴族や庶民の間に広まりました。これに伴って、都の南方に広がる紀伊山地には仏教諸尊の浄土があると信じられるようになり、この地の霊場としての性質がいっそう強まりました。この地方の神聖性がことさら重要視されるようになった背景には、深い山々が南の海に迫るという独特の地形や、両者が織り成す対照的な景観構成などが大きく影響していたものと考えられている。
このような特有の地形及び気候、植生などの自然環境に根ざして育まれた多様な信仰の形態を背景として、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と呼ばれる顕著な三つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」が形成されました。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「世界が認めた!厚い信仰の聖地 熊野の神 熊野本宮大社 世界遺産登録」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2808217
熊野本宮大社八咫の火祭り
神の使い『八咫烏』が神武天皇を正しい道へ導いたという言い伝えにならい、この祭りは人々を幸福に導く『導きの祭り』である。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「八咫(やた)の火祭り~古きを伝え、新しきを魅せる 温故知新の極致~」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2803424
那智参詣曼荼羅(県指定文化財)
熊野那智大社について
熊野那智大社は、神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)の御東征を起源としている。
西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に上陸されました。 一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智御瀧を探りあてられ、その御瀧を大己貴命(おおなむちのみこと)の現れたる御神体としてお祀りされました。
神日本磐余彦命の一行は天照大神より使わされた八咫烏の先導により無事、大和の橿原の地へお入りになられ、西暦紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位されました。
先導の役目を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、現在は石に姿を変えて休んでいるといわれている。(烏石)
その後、熊野の神々が光ヶ峯に降臨され、御滝本にお祀りしておりましたが、仁徳天皇5年(317年)、山の中腹にあらためて社殿を設け、熊野の神々・御瀧の神様をお遷し申し上げました。
これが熊野那智大社の始まりとされている。
那智の御瀧は熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体としてお祀りされている。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「御創建1700年 熊野那智大社 光り輝く山『那智御瀧』から始まる神社誕生(その壱)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2862097
那智の扇祭り(那智の火祭り)
那智の火祭
「那智の扇祭り」は熊野那智大社の例大祭に行われる行事で、毎年7月14日に斎行される。太陽を模した扇神輿と呼ばれる板状の依代12体が、本殿から那智の大滝まで渡御して、五穀豊穣や家内安全などを祈願する。扇神輿の渡御途中からは、12本の大松明が先導してその経路を浄めることから、「那智の火祭り」と呼ばれることもある。熊野信仰の拠点の行事として厳格に伝承されてきた一方で、太陽や水、火といった自然崇拝的な性格が濃厚にみられる行事である。国指定重要無形民俗文化財に指定されました。
熊野那智大社でお祀りしている熊野の神々はもともと現在の那智の滝付近でお祀りされていました。 その神々を今から約1700前に那智山中腹にお遷ししたのが熊野那智大社の始まりとされている。
この祭典は熊野の神々が一年に一度もともとお祀りされていた御滝本に里帰りをし、ご神威新たにする、という神事である。
午後2時に飛瀧神社の参道にて「御火行事」が行われる。 数百年の杉のなか昼なお暗い御滝の参道に映える大松明の炎が注目される熊野那智大社の一大神事である。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「熊野の神域・那智『那智の火祭り』は熊野の神々が一年に一度、御滝本に里帰り(その弐)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2868434
山が連なる熊野三山 熊野速玉大社
熊野信仰の起こり
私達の祖先は、一体いつの頃から「神」の存在を感じたのでしょう?古代の人々にとって、生命の保証のない大自然の中で生きていくことは、想像を絶するほど過酷であったと思われます。自然は、言葉で言い尽くせない驚異、感動、苦しみ、そして恵みを私達に与えます。 人間の生活を、また自らをも破壊してゆく自然の猛威、一方で暖かい光と豊饒の恵みをもたらす生命の泉としての存在・・・大自然の脅威と恵みは、古代人の心に「恐れ」と、気高く聖なるものへの「畏れ」を生み出していきます。
その中で私達の祖先は、自然をも超越した完全無欠の神を望まず、大自然の中にこそ存在し、災害も恵みも合わせ与える厳しくも温かい神を望みました。 熊野には、自然が作り上げた神聖な場所がいくつも残っていて、そのような特別の場所に、熊野三山の神々は降り立ちました。
熊野速玉大社本殿
神倉山と新宮
「熊野権現御垂迹縁起」(一一六四年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように十二の神殿が完成しました。
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。また、ここから弥生時代中期の銅鐸の破片も発見されています。 十月の例大祭では、お旅所に新宮の由来となった最初の宮である「杉ノ仮宮」を造り、古式に則って神事が行われます。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「人生甦りの熊野速玉大社へ ~ 千早ふる 熊野の宮のなぎの葉を 変わらぬ千代のためしにぞ折る ~ 藤原定家(前編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2901670
2月6日の夜行なわれる「御燈祭り(おとうまつり)」(国重要無形民俗文化財)
御燈祭りは,神倉山の山上に上がり子と称する参拝者が群れ集うなか,御神火が起こされ,火は大松明に移される。大松明はいったん下山し再び上ってくると,人びとはその火を一斉に分かち始める。やがて辺り一面は火の海のようになるが,頃合いを見計らって山門が開けられると,上がり子たちは一気に山を駆け下りていく。翌日は,御礼参りの日で,神倉山の麓で大護摩供や火渡り,餅撒きなどがある。
「ゴトビキ岩」を御神体(ごしんたい)とした熊野速玉大社 摂社【神倉神社】
熊野速玉大社 摂社【神倉神社】
神倉神社は市街地の西、権現山(神倉山)の南端に鎮座する、熊野速玉大社の飛地境内摂社です。 「ゴトビキ岩」を御神体(ごしんたい)とし、高倉下命(たかくらじのみこと)・天照大神(あまてらあすおおみかみ)を祭神としている。
熊野の神が降臨した地とされ、絶壁の上の巨岩「ゴトビキ岩」に、古代の人々は神がやどると信じていました。
神倉神社は、熊野大神が熊野三山として祀られる以前に一番最初に降臨された聖地です。天ノ磐盾という峻崖の上にあり、熊野古道中の古道といわれる五百数十段の仰ぎ見るような自然石の石段を登りつめた所に御神体のゴトビキ岩がある。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「御燈祭りは男のまつり 山は火の滝 下り竜 世界遺産 熊野速玉大社 摂社【神倉神社】御燈祭り(後編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2908032
世界遺産 那智山 青岸渡寺 三重塔と那智の滝
御由緒
「補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で親しまれている西国第一番の礼所であります。当山の縁起によるとその開基は仁徳帝の頃(4世紀)、印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初である。
その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した八寸の観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのでした。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「世界遺産 青岸渡寺 ~ 補陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬 ~」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2878605
十王図
姥神とは
姥神の定義の説明の前にまず、奪衣婆の説明をさせていただきたい。
奪衣婆とは、死後にあの世へ渡るための三途の川の岸辺にいて、亡者の衣を脱がせる存在である。なぜ脱がせるのかと言うと、その衣を衣領樹(えりょうじゅ)と呼ばれる木の枝にかけるためである。そうすると生前の罪の大きい者は枝が大きく下がり、小さい者はほとんど動かない。亡者の罪はその衣に重さとなって染み込んでいることになる。衣領樹は罪を量るはかりであり、それを審査するのが奪衣婆である。
石段に歴史を感じる 月山の金姥
月山の金姥
月山の手前(村山側から見て)に姥ヶ岳があり、この山すそ、湯殿山へのコースと月山へ向かうコースの分岐点に金姥と呼ばれる場所があります。ここは、鶴岡市羽黒町の宿坊、小関坊にある唐金(青銅)製の姥神像を運んで祀り、安産の神様として信仰されていたとのことです。毎年夏前に運び、秋に下ろしていたそうですが、現在は運ばれてはいません。
このような信仰形態は村山地方には見られないこと、庄内側ではあまり石像の姥神が多くないことから、以前は同じ山形でも村山側と庄内側は、藩や国が違っていたため、姥神信仰の形態も違っていた可能性があります。ただし、どちら側でも湯殿山や月山に関連した姥神信仰があったことは間違いないと言えます。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-3 TOKIO 2020~全国の姥神像行脚(その7)~出羽三山「月山の金姥とは」・・・【寄稿文】 廣谷知行
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6424113
対馬一の宮「海神神社」
対馬の中央部・峰町の西岸に位置する木坂地域に、対馬一の宮「海神神社」(かいじんじんじゃ)が鎮座しています。かつて「街道をゆく13 壱岐対馬の道」の取材で、この地を訪れた司馬遼太郎氏は以下のように記述しています。
「街道をゆく13 壱岐・対馬の道」より
「対馬が神々の島であるというのは十世紀の『延喜式神名帳』に記載されているいわゆる式内社だけで二十九社もあり、これを肥前(長崎県・佐賀県)がわずか三社しかないことにくらべると、よくわかる」 「照葉樹で覆われたこのまるい伊豆山は、海上からその山容をみれば雲などを湧きあがらせてまことに奇(くす)しき山であるにちがいない。
ここに対馬の海部(海洋民俗)たちが、自分たちの住まいである船と航海の安全をいのって海(わだつみ)の神をまつったのは、当然であるかと思える。」 「海神神社は、伊豆山の山頂にある。山頂への道は堂々たる石段で、登るのが大変だが、ただこのような土地にこれほど贅沢な石段が造営されていることにおどろかされた。」 「全山が原始林で、野鳥の天国のようになっている。
その頂上の平坦地にある拝殿は社殿とともに大ぶりな建築で、みごとというほかない。社殿は、南西の海に向かっている。航海する海辺のひとびとを守りつづけてきたという感じが、社前に立つとわかってくるような気がする。」
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-4 TOKIO 2020日本遺産 国境の島『対馬』を知る「神々の時代から現代まで‼対馬楽講座~歴史編~」募集
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7649955
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