ZIPANG-7 TOKIO 2020 「飛騨の匠」の魂と技を伝承【飛騨産業】


 隈 研吾 氏 とのコラボレーション
「木の潜在力」をどう引き出すか…


⿅の軽やかで可愛らしい躍動感を飛騨産業の卓越した⽊加⼯技術によって作り上げた椅⼦。

肘掛けから横に延びて背に繋がる繊細なカーブは、牡⿅の⾓のカーブからヒントを得ながら導き出しました。

テーブルの周りに並んだ椅⼦は群れ⽣活をする⿅の家族を想起させます。



シカ SHIKA

シカ SHIKA デザイン:隈 研吾


「神鹿」春日大社境内 飛火野


木には、言葉を超えた魅力がある。

20世紀のコンクリートの時代から、世界中が「木」というものに向かっている時代。
それも単に「木を使えば良い」というものではなく、「木の潜在力」をどう引き出すか…そんな時代が本格的に来たなと感じています。


今回、言葉を超えた魅力を持つ木との付き合いをもっと色々深めていきたい、そんな想いもあり、ダイニングチェアとテーブルの開発に至ったわけですが、食事をする際、こんなにモノが美味しく見える椅子やテーブルは無いなと思っているんです。


家具も建築も、視覚的なモノ以上に触覚的なところで人間に響くモノが長く残っていくと思うんですが、座るだけでなくて、ぜひ撫でていただいて、この家具の「触覚的な凄さ」を感じてもらえればと思いますね。このコラボレーションを通じて、人間の心に響くモノを作るプロセスを学べて凄く楽しかったですし、思っていた以上の綺麗な家具を制作できて、とても満足しています。

                                                                                                                             隈 研吾



隈 研吾
KENGO KUMA


建築家・デザイナー

1954年

神奈川県生まれ

東京大学建築学科大学院修了

1990年

隈研吾建築都市設計事務所設立

2020年

東京大学特別教授・名誉教授

1964年東京オリンピック時に見た丹下健三の代々木屋内競技場に衝撃を受け、幼少期より建築家を目指す。

大学では、原広司、内田祥哉に師事し、大学院時代に、アフリカのサハラ砂漠を横断し、集落の調査を行い、集落の美と力にめざめる。

コロンビア大学客員研究員を経て、

1990年、隈研吾建築都市設計事務所を設立。これまで20か国を超す国々で建築を設計し、国内外で様々な賞を受けている(日本建築学会賞、フィンランドより国際木の建築賞、イタリアより国際石の建築賞、他)。

その土地の環境、文化に溶け込む建築を目指し、ヒューマンスケールのやさしく、やわらかなデザインを提案している。

また、コンクリートや鉄に代わる新しい素材の探求を通じて、工業化社会の後の建築のあり方を追求している。






飛騨産業


【志】


匠の心と技をもって
飛騨を木工の聖地とする。


悠久の森と飛鳥時代から続く匠文化を背景に、大正9(1920)年、
地域の発展を願う有志が、「無用の長物」とされていたブナを活かし、
曲木家具づくりをはじめました。


先人たちのひたむきな努力と挑戦により、飛騨は日本を代表する家具の産地へと発展しました。

匠の心と技とは、人を想い、時を継ぎ、技を磨き、森と歩むこと。

節や杉の魅力を引き出した家具を世の中に送り出してきたように、
これからも私たちは森林資源への探究を重ね、その活用を牽引し、
木の温もりある暮らしをお届けしたいと考えます。

新たな創造を可能とし、その魅力を求めて人々が集う場所へ。
創業の地である飛騨を「木工の聖地」とすることが私たちの志です。



【4つの価値観】


人を想う 時を継ぐ 技を磨く 森と歩む


創業100 年を契機に、改めて自分たちが何者なのかを自問自答し、

「企業としての事業方針」「製品・サービスの展開カテゴリー・開発方針」「社員1 人1 人の行動指針」など、

様々なレイヤーにおける普遍的な考え方を全て包括するものとして、

「4 つの価値観」という形に整理、言語化しました。



人を想う ― 時を継ぐ

職人(木工のプロフェッショナル)集団として想いを馳せる2つの対象

技を磨く ― 森と歩む

飛鳥時代から受け継ぐ「飛騨の匠」のDNAである「伝統」と「革新」



「飛騨の匠」の起源



ヤリガンナを使う飛騨の匠




「飛騨の匠」の起源は、縄文時代までさかのぼります。

飛騨は東西に延びる中央の分水嶺を境に、雪の多い北部はブナやナラなどの広葉樹、南部はヒノキなどの針葉樹が広がっていました。また、飛騨山脈や白山からもたらされる水に恵まれ、食料となる肉や木の実なども手に入る住みやすい土地でした。


豊かな森から生まれる木材は、竪穴式住居の建築に利用されていました。
木を切る道具となる蛇紋岩が比較的どこでも採れたため、遺跡の住居周辺には木を伐り倒す斧や、ほぞ孔を開ける鑿(のみ)などの石器がたくさん出土しています。


飛騨の「いらない人はいない」とは

飛騨の縄文人は、良い素材に恵まれた環境で、道具を駆使して住居を建て、みんなで力を合わせて作業するようになりました。人口の少ない飛騨では、昔から「いらない人はいない」といって、よそ者を受け入れる考え方が根づいており、助け合いながら共同で作業することが得意だったと考えられています。



養老律令に飛騨の匠、現る


都に召し出された飛騨の匠たちが行き来した峠越えの道「位山街道」


「飛騨の匠」が現存する史料に初めて登場するのは、今からおよそ1300年前のことです。


養老二年(718年)に編纂が始まり、天平宝字元年(757年)に施行された「養老律令」の賦役令に斐陀(飛騨)国条が定められ、飛騨からは1里(50戸)につき10人が1年交代で都へ出役することが義務づけられました。


史料に残ってはいませんが、その前の大宝律令(701年)でも同様であったと考えられています。


飛騨国は優れた木工集団を派遣する見返りとして、租・庸・調のうち、庸・調という税が免ぜられました。これが律令政治による、飛騨から都へ人材を派遣するという「飛騨の匠」制度の始まりです。


当時の飛騨は10里程度と推察され、1年に100人を基本とし、工事の状況によって多い時には200人近くが徴用されました。平安末期までの約500年間で、都に向かった人数は延べ4万とも5万ともいわれています。


食料や調理人の確保運搬も自分たちで行ない、仕事は年に330日以上350日以下と定められ、この日数に達しなければ飛騨に帰ることが許されませんでした。


厳しい労役に耐え、真摯で並はずれた腕を誇る木工集団は、いつしか「飛騨の匠」と称賛されるようになりました。


国宝 法隆寺夢殿


薬師寺・法隆寺夢殿・東大寺など幾多の神社仏閣の建立に関わり、平城京・平安京の造営に貢献し、日本建築史における黄金時代の一翼を担ったのです。


現在も、奈良県橿原市に飛騨町がありますが、高山の町並みを思わせる端正な木造家屋が軒を連ね、大和路にも飛騨と共通する地名が多いことから、飛騨から京に上った人たちが留まって住みついたと考えられています。


※ひだは漢字では斐陀や斐太とも記されていますが、ここでは現在の飛騨として表記します。また飛騨の匠も飛騨匠や飛騨工と表現されることがあります。


最後の宮大工「西岡常一」氏を訪ねて(鎹八咫烏)



薬師寺西塔の石段に座り、
法隆寺や薬師寺西塔の建築について熱く語る西岡常一氏


幼児の頃から…、祖父の話、また薬師寺の木を探しに台中(台湾中部)の山中に分け入り立木を見に行った時の話、また独立したお弟子さんの話等々…つい西岡棟梁の話に夢中になり、気が付くといつしか夏の陽は西に傾いていました。


                  薬師寺西塔


「木のくせ組むには人を組め」

昭和62年初夏、薬師寺西塔に西岡家三代にわたる法隆寺の宮大工西岡常一棟梁を訪ねたことがある。西岡棟梁は正倉院に納められた工芸用のヤリガンナを参考に研究し、堺の刀鍛冶・水野正範氏の協力を得て再現したのである。


飛鳥の時代に使われていた工具・ヤリガンナとは一体どんなものでどのように使うのか尋ねると、薬師寺伽藍復興奉行所に案内してくれ西岡棟梁は、製材したばかりの桧(台桧)を実際にヤリガンナで削って使い方と仕上がりを見せてくれた(ヤリガンナで削った木のくずは、薄く長く巻いて美しい)その折に、この時とばかり質問してみた「木造建築のこんな大きなものを、出身の異なる大勢の匠の方たちで造る時の極意とは?」すると、西岡棟梁がポツリと独り言のように「木のくせ組むには人を組め」と・・・(合掌)



各地に広がった飛騨の匠


律令制度が終わった後、飛騨の匠はその腕を買われて、地方の有力者や豪族に重用されたと考えられています。


胡四王神社 本殿


胡古四王神社 本殿の屋根下の美しい木組


胡古四王神社 一本の木を削ってつくった一本造りの擬宝珠


たとえば、秋田県大仙市にある古四王神社の本殿は元亀元年(1570年)に建立され、古くから飛騨の匠が建てたと伝えられてきました。


実際、昭和五年(1930年)に改修した際、「古川村 大工 甚兵衛」と墨書きされた部材が発見されています。古川村とは、現在の飛騨市南部の古川町のことです。


※古四王神社(こしおうじんじゃ)

〒014-0031 大仙市大曲字古四王際30

宮司 高橋 徳久


御祭神

大彦命(おおひこのみこと)

天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)

豊受大神(とようけのおおかみ)

建御名方命(たけみなかたのみこと)

八坂刀売命(やさかとめのみこと)

水波女神(みずはのめのかみ)


例祭 9月8日

由緒

建立については、前責任役員富樫氏の文書に、『古四王大権現建立、元亀元年卯月吉日、戸沢六郎、又兵部トモ云伝也、奉行富樫左衛門太郎』とあって、富樫家の祖、誠白より7代目左衛門太郎勝家が領主戸沢兵部の命により、奉行として建築したものと見える。飛騨の名匠甚兵衛が、棟梁として建立したものである。

明治6年村社となり、昭和41年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

明治41年12月17日諏訪神社、水波女神社、稲荷神社を合併す。

明治42年国宝に指定されたが、昭和29年文化財保護法の制定により、同年8月29日重要文化財に指定される。


また、埼玉県狭山市の入間野神社は建久二年(1191年)の創建といわれています。現在の社殿は改修されましたが、毎年10月に奉納される獅子舞で歌われる唄に飛騨の匠が登場します。


“この宮は 飛騨の匠が建てたよな 四方しめたよ くさびひとつ”



神になった匠




中国の書物「杜陽雑編」には、韓志和(からしわ)と呼ばれる木彫の名人が登場します。韓志和は日本人で飛騨の匠の一人といわれています。みずからの彫った鶴が本物のような出来ばえで、この鶴に乗って唐の国に渡り、穆宗皇帝お抱えの大工となったという伝説です。


再び鶴に乗り、唐から飛騨へ帰る途中、筑前国で矢を射られ、その鶴の羽が落ちたところが博多(羽形=はかた)になったとか。


上:葛飾北斎『飛騨匠物語』下
下:葛飾北斎『新板 飛騨匠物語』四

いずれもすみだ北斎美術館蔵(通期)


※読本『飛騨匠物語(ひだのたくみのものがたり)』は、飛騨の名工・猪名部墨縄が、様々な機関(からくり)を作って活躍し、仙人の世界を追われた男女を結婚させるという物語です。『新板 飛騨匠物語』はその後摺にあたります。

後摺とは、初摺の板木を再び使用して摺られたものを指します。 両書の挿絵を比較してみると、姫君が将来の夫たちを夢にみる場面で、初摺(上)は夢の中の夫たちの背景を濃墨にすることで、寝ている現実の姫君と対比させています。

後摺(下)では濃墨が省かれ、夢と現実の境目がわからなくなっています。


その後、韓志和は大工の守り神である木鶴大明神として祀られるようになりました。また江戸時代には、この物語が石川雅望によって「飛騨匠物語」という読み物となり、葛飾北斎の挿絵とともに大評判となりました。



金森宗和と京の雅


金森宗和像


薄塗りの飛騨春慶(原三右衛門旧蔵)


戦国時代になると、豊臣秀吉の命を受けて天正十四年(1586年)に飛騨入りした金森長近(ながちか)は、高山城や国分寺などを再興し、高山の町づくりを始めます。


千利休の茶会では筆頭となるほどの茶人であった長近は、町づくりにあたり京都の町並みを模範としました。高山の町並みが碁盤の目のように整然とし、東山と呼ばれる山に各宗派の寺院が建ち並んでいるのは、京都を見習ったためです。


二代目可重(ありしげ)も二代将軍秀忠の茶道指南役として茶頭を務めていました。そんな環境で生まれた重近(しげちか)は、金森家三代目を継ぐはずでしたが、武人としての生き方よりも文化的な営みを好みました。


飛騨の匠である高橋喜左衛門に茶道具として木地を作らせ、御用塗師の成田三右衛門に透きうるしを塗らせ、「春慶塗」と命名したのも重近でした。


しかし、大坂冬の陣の際、父の怒りに触れて勘当され、母とともに京都に隠棲。金森家三代目を異母弟に譲って出家をし、宗和を名乗りました。


千利休が秀吉の怒りに触れ切腹を命じられ、長男である道安が高山で隠遁生活を送っていた時から深く茶の世界に傾倒していた重近は、京都でさらに茶道の道を究め、宗和流を興します。


最先端の文化人として都で活躍する宗和の影響で、高山は洗練された京の文化を取り入れていきます。



天領と旦那衆


彫刻が施される前の屋台「邯鄲」(かんたん)


立川和四郎の彫刻を施してある現在の五台山。天保8年(1837年)の制作


飛騨の豊富な森林資源と鉱物資源に目を付けた徳川幕府は、元禄五年(1692年)金森家を出羽に移封し、飛騨を天領とします。


武士が少なくなり、組単位による自治が進んだ高山では、強固な団結の元に祭礼を行ない、やがて現在の高山祭を形作っていきます。


幕末から明治になると、財力をもった旦那衆が張り合うように、祭礼の象徴である屋台の改修に出資し、工匠たちに技術を競わせ、絢爛豪華な現在の屋台となっていきました。


また、商家や造り酒屋の邸宅は、京の雅な様式と江戸の力強い構成に、飛騨の匠の技術を加えた建築として知られています。



現代につながる匠の技


飛騨の匠は森にいる 飛騨産業 本社


古今折衷~飛騨の匠は森にいる~
伝統の技を活かしナチュラルモダンなデザインとコラボする飛騨の家具(インテリア)


明治になると市町村制や議会制度が始まり、飛騨でも近代産業の育成が急務となりました。明治初期には製糸業が全盛となりましたが、木工関係は春慶塗や一刀彫りなど小さな日用品や工芸品に限定されていました。


後期には、森林資源を活かした林業・製材業が発展していきます。
さらに当時の農商務省による広葉樹の利用を促進する活動が進むと、飛騨でもさまざまな調査研究が始まりました。


秋田県湯沢町でブナ材を活用した曲木椅子製作の秋田木工が設立されたことが伝わり、ブナ材を使った工芸品の製品化を進める機運が高まりました。


大正になると広葉樹を製材する会社も設立されています。
また、曲木技術習得のため、大阪の工場に職人を派遣するなど、曲木工場設立の準備が整っていきました。


そして大正9年(1920年)6月には高山の有志が発起人となり、曲木工場立ち上げの株式募集が始まります。


同年8月10日に飛騨産業の前身となる中央木工が株式会社として設立されました。こうして1300年にわたる飛騨の匠の伝統は、曲木椅子製作という近現代の産業へとつながっていきました。



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使



協力(順不同・敬称略)

飛騨産業株式会社
〒506-0812岐阜県高山市漆垣内町3180 電話:0577-32-1001

古四王神社(こしおうじんじゃ)
〒014-0031 秋田県大仙市大曲字古四王際30  電話:0187-62-2016

一般社団法人 大仙市観光物産協会
〒014-0027 秋田県大仙市大曲通町6-5(大曲駅2階)電話:0187-86-0888

すみだ北斎美術館
〒130-0014 東京都墨田区亀沢2-7-2 電話:03-6658-8936

文化庁
〒100-8959 東京都千代田区霞が関3丁目2番2号 電話:03(5253)4111

紅山子(こうざんし)


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アーカイブ リンク記事をご覧ください。


神奈川 九龍 上行寺 左甚五郎作


宮彫りの歴史と芸術性

先ごろ、日本全国に建立されている寺社の建築物に精巧に施された彫刻を「宮彫り(MIYABORI)」と呼び、日本独自の芸術文化財として社会的認知の推進が計られている。

「宮彫り」は、桃山時代から江戸・幕末にかけて建築物に多用され、伊達政宗は、都の文化として彫刻大工や宮大工を藩内に呼び寄せ、宮城県瑞厳本堂(国宝)を建築しているほか、豊臣秀吉や徳川家康も彫刻を建築物に用いたことで知られている。

特に、民衆の宗教的演出効果を狙った経典の場面や極楽浄土の景色などを欄間などに彫刻し、金箔や彩色を施し、堂内を荘厳にするようにし、それを結実させたのが、栃木県・日光東照宮の名工・左甚五郎の眠り猫を代表作とした宮彫である。


ZIPANG-5 TOKIO 2020 古都鎌倉の寺社に匠の龍を訪ねる ~神奈川九龍~(2)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/16919297


秩父神社 「つなぎの龍」左甚五郎作


秩父神社の現社殿にある有名な「つなぎの龍」の伝説も、夜祭で「お諏訪渡り」する理由も、諏訪神も本来龍神であることを思えば、先史以来の「秩父大神」が「お山」に棲む龍神であることと無縁とは考えられません。

こうして見るところ、秩父盆地の中央に鎮座する秩父神社が、なぜこの土地一円の総鎮守なのかが明らかになります。

つまりは、盆地全体の聖山・武甲山に鎮まる秩父国魂の「大神」を、春の〝田植祭〟に歓迎し、やがて農事や養蚕の収穫を終えた晩秋に、この〝秩父夜祭〟でまた「お山」に鎮送するという、この毎年の送迎神事、すなわち盆地全体の<風土祭祀>を、当社が千古変わらずに執行してきたからなのです。

ともあれ、やがて訪れる木枯らしの秩父颪も、この夜祭あってこそ、山びとがそれを凌いできたものであり、幾百年の歴史を超えて伝えられた敬虔な祈りこそ、人類共通の文化遺産として、秩父の里人に連綿と受け継がれてゆくものなのです。

                        秩父神社宮司 薗田 稔


ZIPANG-6 TOKIO 2020 秩父神社 「 日本三大曳山祭・秩父夜祭 」&「 神楽 」開催(Ⅰ)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/38386376


高山市荘川 日本一の五輪水車


ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~飛騨は一つ~ 高山市・荘川・奥飛騨温泉郷編『日本の精神文化と国土の美しさについて再発見』(その1)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/10555563


飛騨市 古川祭 飛騨伝統の屋台で華麗に舞う「子供歌舞伎」


ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~飛騨は一つ~ 飛騨市(古川・神岡)編『伝統風習と全国に誇るふるさと自慢とは⁉』
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/11228303


「男は祭りを そうさ かついで 生きてきた 山の神 海の神 今年も本当に ありがとう 白い褌 ひきしめた 裸若衆に 雪が舞う 祭りだ 祭りだ 祭りだ 豊年祭り 土の匂いの しみこんだ 伜その手が 宝物」

ご存知、北島三郎氏(作詞なかにし礼氏、作曲ご本人)の日本の心を歌った演歌「まつり」の一節である。

この歌にぴったりだと思うのが『古川祭・起し太鼓』である。この「祭」は「まつり」のためにあるのか、はたまた「まつり」は「祭」のためにあるのか「まつりの詞・曲」と「古川祭」が渾然一体となって心に沁みてくる。

日本の心「日本のまつり」、東京オリンピック・パラリンピックのメインスタジアムに地域を彩る全国33の日本が誇るユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台」を集結、会場内にいる世界中のアスリートや観客だけでなく同時に衛星放送やインターネットで全世界に配信し、世界平和・日本の心「まつり」を是非披露したいものです。東京は勿論、日本のオリンピック・パラリンピックなんだから!

主催都市の小池百合子東京都知事、森喜朗公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会委員長、安倍晋三内閣総理大臣、イベント総合監督・演出家(未定)、誰でも構わない(失礼)2020年東京オリンピック・パラリンピックのフィナーレの演出の中に、日本の心「日本のまつり」を是非加えて欲しいものである。


ZIPANG TOKIO 2020「飛騨の春はここから始まる!4月19日、20日 天下の奇祭、勇ましい起し太鼓、絢爛豪華な屋台の曳揃え、神事の御神輿行列 三位一体の『古川祭』」開催!
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2078567


高山祭(宵祭)

春の祭屋台12台と秋の祭屋台11台の計23台が55年ぶりに同じ場所に曳き揃えられます。

 

ZIPANG TOKIO 2020「春の高山祭(山王祭)と 55年ぶりに春と秋の祭屋台23台曳き揃え ユネスコ無形文化遺産登録記念『高山祭屋台の総曳き揃え』のご案内」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2218255


薬師寺の伽藍は独特のスタイルから「薬師寺式伽藍」と呼ばれております。

中門(左下)、中門の正面(北)に金堂。さらに北には大講堂がある。中門から右(東)に東塔、中門から左(西)には西塔が建つ。


ZIPANG TOKIO 2020「 世界遺産・国宝  【法相宗大本山 薬師寺】は、奈良西ノ京町に建立された南都七大寺」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2379674


奈良公園の親子鹿。

奈良公園は鹿の王国 !

鹿と言えば春日大社⇒鹿島神宮⇒日本国サッカー⇒ま、まさか中臣鎌足がここ迄見通していたとは・・・‼? 


ZIPANG-4 TOKIO 2020 伝統を再生!古都奈良の景観を継承する隈研吾氏のデザイン。奈良公園内に初のリゾートタイプのホテル誕生「ふふ 奈良」 ~前編~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8382461


春日大社 中門と藤

神護景雲2(768)年、今の地に社殿が造営され、現在のような規模が整ったのは平安時代前期のこと。境内には、朱塗りのあでやかな社殿が立ち、古来より藤の名所としても有名。

また、境内には春日大社国宝殿があり、国宝352点、重要文化財971点を含む約3000点を収蔵、公開しています。


天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に 出でし月かも(古今和歌集)

ZIPANG-4 TOKIO 2020 「ふふ 奈良」 6月5日 開業! 奈良公園内初となるラグジュアリーホテル ~後編~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8381477


十和田湖の四季
キラキラキラと 光の中から聞こえて来そうな雪ん子たちのわらべ歌 「冬」


ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~光の祭典~ 『カミのすむ山 十和田湖  FeStA LuCe 』今年は更にスケールアップして開催決定!
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/21535951


ZIPANG-5 TOKIO 2020「日本のたてもの ―自然素材を活かす伝統の技と知恵」の開催について【文化庁】
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/14157255


ZIPANG TOKIO 2020「(一社)日本色彩学会 平成29年度研究会《NAGOYA》大会及びLOJ&LC 大会前日(11月24日・金)プレ企画(見学・懇親会)のご案内(第一報)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3213274



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ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
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ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
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ZIPANG-7 TOKIO 2020

これまでの、日本の精神文化と国土の美しさについて再発見に加えて その1. 全世界との情報の共有化 その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重! その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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