9月8日より「お寺タクシー」のサービスを開始
宗教法人證大寺(真宗大谷派・東本願寺・浄土真宗)(よみ:しょうだいじ、所在地:東京都江戸川区、住職:井上 城治)は、後期高齢者を引きこもりにさせない「お寺タクシー」のサービスを2023年9月8日(金)より開始。
浄土真宗大谷派 證大寺
■提供背景 2025年問題に備える
2025年には日本の人口でもっとも多い団塊世代(1947年~1949年)が後期高齢者を迎えます。免許返納者が増えていき、生活の足を失うことで、急速に引きこもる後期高齢者が増え、孤立化をしていくことが社会問題となっていくことが予想されます。
この問題を解決する手段として、お寺が檀家さん向けに「お寺タクシー」をスタートさせて、月に1度、自宅からお寺まで送迎します。お寺では僧侶がお茶を飲みながら1時間ほど日頃の悩みを傾聴したり、お寺を居場所とした認知症予防の講座などの取り組みを通して後期高齢者の引きこもりを防ぎ、認知症予防などの問題解決に向けて動き出します。
本サービス「お寺タクシー」がスタートすることで、今後コンビニの数よりも多い寺院へ同様の取り組みが波及していくことが期待されます。
<このような課題をほっとけない。>
※ 免許返納により、今まで慣れ親しんだ場所に通えなくなることで孤立化をしていく。
※ コミニュケーションの減少により、深い孤独を感じたり、認知が進んでいく恐れがある。
※ この取り組みが広がることで、コンビニの数より多いお寺が同様のサービスを始めることで後期高齢者の引きこもりを防ぐことが期待される。
■サービスの特徴
*免許を返納して生活の足がなくなっても、月に1度はお寺がお迎えに行きます。
*お寺からの帰りは、生活拠点となるスーパーや病院、友人宅にもお送りいたします。
*もっと自由に、もっと気軽に!現役世代の子どもたちに送迎の負担をかけません。
*お寺タクシーは車椅子の搭載可能な福祉仕様もご用意、乗降もお寺の職員が支援。
*費用は生涯無料。お寺の檀家さんであればどなたでも利用いただくことができます。
■ご利用の流れ
・お寺に電話して「お寺タクシー」利用の旨を伝え、送迎日時を確定いたします。
・お寺のLINE公式アカウントからのお申し込みも可能です。
・車椅子が必要な方は、専用車で送迎するのでその旨をお伝えください。
・乗車人数内であれば何名でもご利用可能です。
・送迎エリアの範囲内であれば、家族や友人のおられる場所に寄っての送迎も可能!
<利用者の声>
・高齢になっても自由でいたいのに、家族からは外出することも心配されて、つい怒鳴ってしまうことがある。「お寺タクシー」で迎えにきてもらってお寺で手を合わせて僧侶と話をすることで、こころが穏やかになり、外出できないことでストレスが溜まっていることがわかった。
・高齢になるほど、人と会って話しがしたいのに、足も悪くなり行き場所が徐々になくなってきてしまった。お寺タクシーのおかげで気の合う友達同士がお寺に集合して、会って話しをすることができる。それでホッとすることもある。
・同居している家族に送ってもらうことしかできなかったので、行きたくても口に出すことができなかったけれど、お寺タクシーのおかげで自分の行きたいときにお寺に行けるようになった。帰りにスーパーで降ろしてくれるのも助かる。
お寺タクシー(江戸川)
■サービス概要
サービス名: 「お寺タクシー」(商標登録出願中)
提供開始日: 2023年9月8日(金) 7月より試験的に運行
提供時間 : 9:00~17:00
料金 : 無料(お一人様 月に1度利用可能)
申込方法 : お電話にて申込受付、證大寺公式LINEより申し込み
<サービス事業所>
[證大寺]
東京都江戸川区春江町4-23-1
都営新宿線「一之江」駅 徒歩10分
[船橋 昭和浄苑]
千葉県船橋市大神保町1306
北総線「小室」駅 バス10分
[森林公園 昭和浄苑]
埼玉県東松山市大谷196
東武東上線「森林公園」駅 送迎バス10分
■会社概要
商号 : 宗教法人證大寺(真宗大谷派・東本願寺・浄土真宗)
代表者: 代表役員 住職 井上 城治
所在地: 〒134-0003 東京都江戸川区春江町4-23-1
證大寺の正式名称は、法輪山 證大寺 続命院である。
證大寺「生涯聞法(もんぽう)」の額
證大寺の発祥は、承和二年(西暦835年)、大宰府に赴任した参議刑部卿 、多くの方が手当ても受けられずに路傍で亡くなっていくのを悲しみ、最期を人間らしく看取るための場所として「続命院」と名付けた坊舎を建立したことに由来する。
(『続日本後紀』巻第四・『豊前遠鏡』)
続命院にはご本尊として阿弥陀如来、病が癒されることを念じて薬師如来、慈悲の願いを伝える観世音菩薩が安置され、遠近より参詣が絶えなかった。
その後、戦乱時代の混乱を経て、元和二年(西暦1616年)、中興の祖である釋学海によって浄土真宗(真宗大谷派)の寺院として再興された。時代がくだり、昭和五十二年に当院 第十九世住職(遊戯院釋雅嗣)の首都圏開教にともない、九州続命院の地から寺基を現在の東京江戸川の地に移し、ご本尊である阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩をこの地にお迎えした。
浄土真宗大谷派 證大寺 手紙寺 2017年グッドデザイン賞授賞 外観
浄土真宗大谷派證大寺 手紙寺 2017年グッドデザイン賞授賞 内観
證大寺の手紙寺
手紙寺は千葉県船橋市の緑豊かな場所にございます。その名の通り、大切な人へ手紙を「作成する」「預かる」ことへの支援をしております。落ち着いた気持ちで手紙を書くことのできる『専用ラウンジ 手紙処』があります。
コーヒーマシーンを置き、参詣者がゆっくり過ごすラウンジとしての機能も充実しています。
大切な人へ手紙を記すには、日頃の生活を離れて手紙と向き合うためにふさわしい場所が必要と考え、手紙処を建立されました。そのため、霊園という祈りの空間に設置することで、気持ちを大切につなぐための演出をしています。
手紙処は奈良の正倉院と同じ校倉造りで、天然の木をたくさん使用して建てられました。正倉院が古の記憶の収蔵庫であるように、手紙処も手紙という形で想いを長く留めるために適していると考え、デザインされています。また、こだわり抜かれたデザインは2017年度にグッドデザイン賞を受賞しています。
證大寺二十世住職を拝命している井上城治と申します。
城治という名前は外国人のようだと言われることもありますが、「法城を厳護して法門を開闡す」と記されているのが由来です。
「厳護」とはしっかりお護りすること、「法城」とはお寺のことを指しています。
お寺をリクリエーションの場所でなく、住職家族の家でもなく、法の城としてしっかり護れという願いが掛けられているのだと思います。
それはお寺とは、仏法の教えを社会に公開するための場であることを忘れないようにという父の願いでもあるように受け止めています。
また私の名前は、法名では釋浄慈と申します。これも父がつけてくれた名前で、親鸞聖人の言葉を集めた『歎異抄』第4条に「浄土の慈悲」とあるのが由来です。
意味は、フラフラせずにただ念仏して往生の一道を歩めという父からの励ましが込められています。
父は末期癌で亡くなる前に「自力作善、愚父の唯一心の救いは、仏子浄慈との出遇いだ」と記した色紙を残しました。
仏子とは仏弟子です。仏弟子とは仏に学ぶ生徒です。 父に呼びかけられる仏子として生涯聞法の歩みを進めて参ります。 どうぞ宜しくお願い致します。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
築約270年の城端別院善徳寺 山門(富山県指定文化財)
山門の天井には、狩野派絵師による天女と迦陵頻伽が描かれ現在も色あせる事無く当時のまま残されています。
城端の町を見守られてこられた善德寺は、開基から530余年を経た真宗大谷派の大刹で、本尊の阿弥陀如来は行基の作と伝えられています。親鸞聖人御真筆「唯信鈔」や蓮如上人御親筆など1万点以上の宝物を所有しており、それらの一部は7月22日から1週間にわたって公開されています。その「虫干法会」では、宝物の展示をはじめ、それらの解説や絵解きが行われます。また、県指定文化財の山門・本堂・太鼓堂(楼)も必見。
ZIPANG TOKIO 2020「必見!県指定文化財の山門・本堂・太鼓堂、建築・工芸・絵画 伝統と和の工夫随所に 南砺市 『真宗大谷派 城端別院 善德寺』」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2308429
井波別院瑞泉寺 山門ライトアップ
江戸時代末期の天明5年(1785)、本山真宗本廟(東本願寺)の大工の棟梁であった柴田新八郎貞英により釿始(起工式)が執り行われましたが、同8年本山の火災復興のため帰京しました。
副棟梁の地元井波の大工、松井角平恒徳が引継ぎ、文化6年(1806)に上棟式を行い見事に山門を完成させました。
総檜の重層入母屋造り(重要文化財)。楼上には釈迦三尊の木像を安置しています。
井波別院瑞泉寺 大門を支えるとまで云われる龍の欄間
2018年5月、瑞泉寺を中心とした木彫の伝統が高く評価され、文化庁が取り組む「日本遺産」に「木彫刻のまち・井波」が認定されました!
井波別院瑞泉寺 太子堂
今日迄連綿として続く井波彫刻は、京都の優れた伝統的な寺院建築や寺院彫刻に学んだ技術と、瑞泉寺再建などで培ってきた井波大工の技術との調和・融合によって生み出されたと考えられます。
獅子の子落とし(勅使門)井波別院瑞泉寺 勅使門両脇彫刻「獅子の子落とし」
狩野派風な図柄で浮き彫りの技法が駆使され、日本彫刻史上の傑作とされています。
ZIPANG-2 TOKIO 2020 井波彫刻発祥『井波別院瑞泉寺』 勅使門『獅子の子落とし』、大門を支える『龍』の井波彫刻(最終話)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5085411
山門のファサードのダイナミックな空間は、難波別院の未来の姿を思わせ、その先には本堂がそびえる。
「南の御堂さん」、「御堂さんの屋根が見えるところで、鐘の聞こえる所で商売するのが夢である」と言われるほどに市民から親しまれ、御堂筋の名前の由来ともなった真宗大谷派難波別院南御堂。
日建設計コンストラクション・マネジメント株式会社(本社:東京都文京区、社長:水野和則、以下:日建設計コンストラクション・マネジメント)が支援した「真宗大谷派難波別院 新事業化計画」が、ICPMA(International Construction Project Management Association)主催の“The 2021 Awards”のAlliance Award 優秀賞(Alliance Distinction Award)を受賞した。
ZIPANG-5 TOKIO 2020 古今折衷 ICPMA “Alliance Award 2021”真宗大谷派難波別院 新事業化計画が優秀賞受賞、昨年の東京會舘本舘建替計画最優秀賞に続き受賞!
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/19312324
慈恩寺
慈恩寺 山門(仁王門)
【山形県指定文化財】 両側には密迹(みっしゃく)金剛・那羅延(ならえん)金剛を安置。
設置年月日:元文元年再興(1736年) 公開の有無:随時(自由に見学ができる) 指定年月日:平7.12.8 員数:1棟 【構造及び形式】 下層 桁行3間(10.06m) 中央間4.55m/左脇間2.76m/右脇間2.76m/梁間2間(5.51m) 三間一戸、八脚門、楼門形式、入母屋造、茅葺 附 棟札一枚 元文元年の記があるもの
慈恩寺 本堂(弥勒堂)
【国重要文化財】 元和2(1616)年、山形城主・最上家親の代に建立が始められ、元和4(1618)年に完成した。
境内には、重要文化財の本堂をはじめ三重塔・薬師堂などが建立され厳かに時を刻んでいます。 平安・鎌倉時代の仏像群は、我が国の仏教美術の至宝として重要文化財の指定を受け、また、5月5日に奉奏される慈恩寺舞楽は、重要無形民俗文化財となっています。 平成26年10月に慈恩寺旧境内を含むエリアが国史跡として指定されました。
慈恩寺一山衆と林家が慈恩寺舞楽八番を舞う
一切経会(慈恩寺舞楽)
日時:毎年5月5日 13時30分~ 楽の音を合図に三か院より住職が出仕し、本堂にて弥勒法一座を修し、舞台上では声明を唱えます。引き続き、慈恩寺一山衆と林家が慈恩寺舞楽八番の舞を披露します。(国指定重要無形民俗文化財指定)
一切経とは仏教すべての経典を意味し、これを読経する一切経会が5月5日に行われます。 引き続き奉奏される慈恩寺舞楽は、林家に伝わる一子相伝1200年の伝承をもつ国指定重要無形民俗文化財です。 燕歩・散手・太平楽・二の舞・陵王などの八番が、林家と慈恩寺一山衆によって奉奏されます。
慈恩寺 阿弥陀如来坐像(平安時代)〔国指定重要文化財〕
慈恩寺 薬師三尊像 日光・月光菩薩 (鎌倉時代)〔国指定重要文化財〕
慈恩寺 十二神将 丑神将(鎌倉時代)〔国指定重要文化財〕
慈恩寺の歴史
慈恩寺の草創
寺伝によれば、神亀元年(724年)、僧基薩が諸国巡錫の砌、慈恩寺の景勝なるを見て都に帰り、聖武帝に奏上し、勅命によって印度僧婆羅門僧正が天平18年(746)精舎を建立して開基したのが慈恩寺の初まりであると書かれている。しかし、これはあくまで寺伝として受け止めるべきであろう。最近の調査で慈恩寺の歴史が少しずつ明らかになって来たのは平安後期からである。
京文化の移入
慈恩寺は、平安後期に摂関家の荘寺的性格の寺院であったため、京文化が直接入って来た。それはこの期の仏像群が雄弁に物語っている。仏像は重文の阿弥陀如来を初め、30体を数えるが何れも中央で造られた優れた仏像である。これらの背景には摂関家の藤原氏があったからに外ならない。鎌倉以降においても現在の仏像は殆ど中央仏師の手になるものである。
慈恩寺の宗教
伽藍記によれば、仁平年中(1151-53)奈良興福寺の僧願西上人が本願となって来山したとあり、これは興福寺が藤原氏の氏寺で」あったから派遣されたものである。興福寺は法相の寺であった。慈恩寺という寺号も法相宗の祖慈恩大師から来たもので、慈恩寺はその頃からすでに法相の寺院であり、法相寺院で通例とする弥勒菩薩を本尊とした。平安後期の慈恩寺の宗教は法相を主流とし、外に天台などの影響もあったものと思われる。それは常行堂や鎮守としての白山権現、金剛蔵王などを祀ったことによって覗われる。鎌倉時代の初頭、後白河院の院宣や右大将源頼朝の下文をもって弘俊阿闍梨が慈恩寺に来山して正式に真言宗が入ってきた。と同時に修験も入り、葉山との関係も生まれて来たと考えられる。室町時代になると時宗の宝徳寺や松蔵寺も入り、慈恩寺の宗教は法相のみならず、天台、真言、時宗と多くの宗旨が併存した。今日でも法会は法相の法式で行われている。鎌倉時代以降は真言が主流であったであろうが、必ずしも一宗に統一するということはなく、現在の残っている阿弥陀堂の前仏宝冠の弥陀の如きは天台宗で信仰されるものであるから真言のみではなかったといえる。室町の末、大江氏が滅亡すると、これに代わって最上氏が庇護を加え、三重塔や本堂の建築も行われたが、元和8年(1622)最上氏が改易になると、別当坊最上院は江戸幕府の陰の実力者天海僧正に取り入って天台宗に改宗しようとした。これに対して真言方学頭宝蔵院、同華蔵院が反対し、長年に亘って抗争を続けた。寛永19年(1642)慈恩寺は天台真言両宗兼学の一山となった。終戦後一山は宗教法人として独立し、本山慈恩寺と名乗り、慈恩宗となって現在に至っている。
慈恩寺の寺領
平安後期には、寒河江荘の荘園主である藤原氏から、供料としての土地が寄進されたものと考えられる。大江氏になってからもそれらを安堵したであろうし、更に寄進の土地もあったと思われる、川向かいの八鍬郷が寺領であったことは、南北朝の文書にある。従って、八鍬郷はそれ以前から弥勒領となっていたものであろう。室町時代の応永2年(1395)には、慈恩寺衆徒が弥勒堂の神輿を箕輪郷に振置きして、箕輪郷を寺領としたという。こうして、江戸時代には寺領は18か村にまたがり、寛文5年(1665)には御朱印高2812石3斗余を幕府から与えられた。東北最高であった。
明治維新後御朱印が停止され、年々逓減録が支給されたが、それも明治14年には打ち切られ、一山は窮乏の渕に沈み、帰農する坊が続出した。しかし、今慈恩寺は重文の本堂を初め、数多い優れた国、県、市指定の文化財を擁して、古代文化の聖地として再生の道を歩んでいる。
ZIPANG TOKIO 2020「慈恩寺は弥勒堂を中心として最上院・宝蔵院・華蔵院の三か院、それに付属する48坊からなる一山組織の寺院であった。現在は三か院17坊である」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2536728/
東本願寺御影堂〈 2.技能の継承 〉参考 〔国指定重要文化財〕
真宗本廟東本願寺は、京都市街に壮大な伽藍を構える本山寺院であります。
現在の伽藍は元治元年(1864)の焼失後、幕末から昭和にかけて順次再興されました。
御影堂は明治28年の建立で、20世紀中葉以来の規模と形式を継承しており、我が国最大の平面規模をもつ雄壮な伝統木造建築です。
御影堂と並立して両堂形式を構成する阿弥陀堂は、格式高く荘厳な内部空間を備えています。
両堂の前には烏丸通に面してそれぞれ門を開き、御影堂門は我が国最大級の二重門になります。比類ない規模と高い格式を備えた近代の木造寺院建築であります。
ZIPANG-5 TOKIO 2020 工匠と近代化―大工技術の継承と展開―【文化庁】
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/14244322
※現在、2100件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。
新サイトの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/
最新の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/
最近の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/
250件ほどの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/
235件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/
200件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/
615件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
0コメント