金戒光明寺について
浄土宗大本山 紫雲山・くろ谷 金戒光明寺 秋の山門
浄土宗の大本山、承安5年法然上人が比叡山の黒谷を下り、草庵を結ばれたのが浄土宗最初の寺院 のはじまり。
西山連峰、黒谷の西2キロの京都御所、西10キロの小倉山を眺み山門、阿弥陀堂、本堂 など18もの塔頭寺院が建ち並ぶ。
また、幕末京都守護職会津藩一千名の本陣にもなった。
浄土宗大本山 紫雲山・くろ谷 金戒光明寺山門前
浄土宗大本山 紫雲山・くろ谷 金戒光明寺 山門 夜間ライトアップ
御影堂(大殿)
内陣正面には宗祖法然上人75歳の御影(座像)を奉安している。 火災による焼失後、昭和19年に再建となったもので、堂内の光線と音響に細部の注意がこらされて昭和時代の模範建築物といわれている。
雍州府誌には本朝三文殊の一つとあり
法然上人八百年遠忌を記念して
文殊菩薩(渡海文殊形式)
金戒光明寺の文殊菩薩と脇侍の尊像は、運慶作と伝えられています。
往古、当山北西の中山宝ほう幢どう寺じの本尊でしたが、応仁の乱の兵火により廃寺となり近くに小堂を造って祀られていました。
その後、当山の方丈に遷座され寛永十年(一六三三)豊永堅齋が二代将軍徳川秀忠公菩提のために三重塔を建立した時に本尊として奉遷されました。
貞享三年(一六八六)刊の『雍州府誌』には「本朝三文殊の一つなり」とあり、古来より奈良の「安倍の文殊」天橋立の「切戸の文殊」と共に信仰を集めていました。
獅子に騎乗する文殊菩薩を中心に手綱を執る優う填てん王おう・仏陀ぶっだ波利はり三蔵さんぞう・最勝さいしょう老人ろうじんの四躯が京都市の文化財に指定されたのを期に、経年の傷みや剥落が激しく五年をかけて修復されました。
欠失していた善財童子は古式に準じて新調し、ここに渡海文殊形式が整いました。
当山では、法然上人八百年遠忌を記念して一般の方々にも広く文殊様の御利益を頂けますよう、総檜造り本漆塗り蝋色仕様の壇に「白檀かけ」という金箔押しに生漆塗りを施した背板を取り付けた須彌壇を作り、総高二・八メートルの文殊騎獅像と等身大の眷属四躯を御影堂左脇に荘厳し、平成二十年四月二十二日御遷座開眼法要をいたしました。
まことある かなわぬみちも かなふなり
ましてほとけの ちかひあるをや
浄土宗で最も大事な、阿弥陀さまの御朱印です。
阿弥陀さまの御朱印は御影堂志納所にて授与しております。
浄土宗最初の寺院
十五歳で比叡山に登られた上人が承安5年(1175年)四十三歳の時お念仏の教えを広めるために、山頂の石の上でお念仏をされた時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことからこの地に草庵をむすばれた。
法然上人がはじめて草庵を営まれた地である。
宗旨
浄土宗
開山・宗祖
法然上人(源空) (1133~1212・鎌倉時代)
唱える言葉
南無阿弥陀仏
本尊
阿弥陀如来
五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏
五劫思惟の阿弥陀仏は、通常の阿弥陀仏と違い頭髪(螺髪らほつ)がかぶさるような非常に大きな髪型が特徴です。
「無量寿経」によりますと、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏となられたとあり、五劫思惟された時のお姿をあらわしたものです。
五劫とは時の長さで一劫が五つということです。
一劫とは「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説もある)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということになります。
そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏で、全国でも16体ほどしかみられないという珍しいお姿です。
落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」はここからきています。
金戒光明寺の五劫思惟阿弥陀仏は、特にめずらしく石で彫刻された石仏で、江戸時代中頃の制作と思われます。
幕末に京都守護職が本陣を構えた「くろ谷 金戒光明寺」は、秋の特別拝観を日中拝観・夜間拝観共に2023年11月15日(水)~12月3日(日)迄開催いたします。
無外流
無外流
無外流
無外流(むがいりゅう)は、1680年に、剣聖宮本武蔵没後6年で生まれた流祖辻月丹(つじげったん)により開かれました。ときに辻月丹※45歳。
※辻月丹(幼名:兵内)は、近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)※出身で、京都で山口流剣術を学んだ後、江戸で道場を開いた。
※甲賀郡は三重県・伊賀忍者と並ぶ忍者、滋賀県・甲賀忍者の里である。
元禄9年から宝永6年(1710年)まで14年間の誓詞によると、月丹の弟子は、万石以上の大名32家、直参156人、陪臣930人。この数字は押しも押されもしない、大名が学ぶ流派と言えるでしょう。
幕末には新選組三番隊隊長斎藤一や、土佐の山内容堂(但し、居合は長谷川英信流を学んだ)、などでも有名です。
新選組結成160年を記念して、国際居合道連盟 鵬玉会(ほうぎょくかい)の師範を中心とした「無外流」の演武を毎日披露いたします。
今から160年前、京都守護職松平容保公の御前で、近藤勇※、土方歳三、山南敬介、沖田総司、斎藤一、藤堂平助ら新選組隊士がその剣を披露いたしました。
※近藤勇
甲州勝沼柏尾坂の戦い (中央に近藤勇、右側奥に大善寺の山門が描かれています)
近藤勇 柏尾坂の戦い
旧幕府軍と新撰組は、1868年(慶応4年)薩摩藩兵を中心とする新政府軍と鳥羽・伏見の戦いで敗れ、大坂から江戸へ帰還しました。その後、近藤勇を隊長とする「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」として新政府軍の東進を阻止する目的で、甲府城の接収を命ぜられ、甲州街道を西へ進みます。
しかし、板垣退助率いる新政府軍3000の一隊はわずか一日の差で甲府城に入城しました。
近藤は援軍要請のため土方歳三を江戸へ向かわせる一方、自身は西進し3月5日勝沼に布陣。
大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家縁の寺宝があるという理由から諦め、大善寺の西側に先頭、山門前及び、東側の白山平にいたるまで細長く配置されたとされています。当初300名いた隊員は次々と脱走し、このときわずか121名だったといわれています。
戦闘は3月6日正午頃から始まりましたが、わずか2時間程で甲陽鎮撫隊は江戸へ敗走することになりました。
新選組三番隊 斎藤一
無外流は特に、新選組副長助勤三番隊隊長斎藤一の剣流として有名であり、元禄から340年の歴史があります。(主催:くろ谷 金戒光明寺、企画運営:京都コネクト株式会社)
■金戒光明寺について
江戸幕末、京都守護職(会津藩)の本陣となった金戒光明寺は、守護職御預かりとなっていた新選組にとても縁の深い寺院で、今年は新選組結成160年の記念すべき年でもあります。また、法然上人(浄土宗)が最初に念仏を唱えた寺院として浄土宗第一号の寺院、念仏発祥の地ともいわれています。
秋の特別拝観では、日中夜間ともに通常非公開の大方丈と紅葉に彩られた回遊式庭園「紫雲の庭」を公開。
大方丈では、特別展示「富岡鉄斎の屏風と徳川家ゆかりの寺宝」や、襖を開閉すると虎の頭数が変わる「虎の間」などもご覧いただけます。
■徳川家ゆかりの寺宝一覧
「豊臣秀吉公肖像」
「徳川秀忠公肖像」
特別公開:「豊臣秀吉公肖像」伝小野阿通筆、「徳川秀忠公肖像」
「徳川家康公肖像」
その他 :「徳川家康公肖像」伝狩野探幽筆、「織田信長黒印状」「徳川家康御判物」など多数公開予定。
■日中特別拝観概要・見どころ
普段非公開の大方丈と紅葉に彩られた回遊式庭園「紫雲の庭」。
大方丈では、襖を開閉すると虎の頭数が変わる「虎の間」などをご覧いただけます。
また山門は日中拝観のみ公開。天気の良い日には大阪のあべのハルカスまで見渡せる楼上からの眺望は絶景です。
さらに、昨年度よりガイド付きの幕末・会津藩・新選組ウォーキングツアーを開催。
美しい紅葉を楽しみながら、幕末・会津藩・新選組に所縁ある金戒光明寺のことをより深く知ることができます。
■拝観期間・時間・拝観料 <日中拝観>
拝観期間 :2023(令和5)年11月15日(水)~12月3日(日)
拝観時間 :10:00~16:30 (最終入場 16:00)
特別拝観箇所:御影堂(みえいどう)・大方丈(おおほうじょう)・庭園 及び 山門の2か所
【日中拝観・拝観料】
<御影堂・大方丈・庭園>
●個人
大人 :1,000円 小学生:500円
●団体(15名以上)
大人 :900円 小学生:450円
<山門>
●個人
大人 :1,000円
小学生:500円
●団体(15名以上)
大人 :900円
小学生:450円
<セット券>
●個人・団体とも
大人 :1,600円 小学生:800円
※国際居合道連盟 鵬玉会(ほうぎょくかい)の師範を中心とした無外流による演武を1日2回披露いたします。
11:00~と14:00~大方丈前庭にて(約15分)
<らくたび プレミアムガイドツアー 幕末・会津藩・新選組ウォーキングツアー>
今年は新選組160年を記念して、国際居合道連盟 鵬玉会(ほうぎょくかい)の師範を中心とした「無外流」の演武と金戒光明寺の中でも幕末・会津藩・新選組に所縁あるスポット(御影堂~大方丈※謁見の間入場~紫雲の庭~山門~会津墓地参道~会津墓地)をガイド付きで巡ることができるツアープランです。
●個人プラン
日程 :金土日祝に開催(10月1日よりホームページにて受付開始)
時間 :午前の部 10:30~12:00(90分) 午後の部 13:30~15:00(90分)
参加費 :4,200円(イヤホンガイド機材レンタル代・共通拝観券1,600円含む)
参加人数:1回あたり20名限定
※ホームページより要事前予約優先、現地精算(現金のみ)
●団体ツアー(事前予約)
日程 :2023年11月15日(水)~12月3日(日) すべての日程で実施可能
時間 :10:00~14:30 の時間内にスタートし、90分間のガイド案内
参加費 :4,100円(イヤホンガイド機材レンタル代・共通拝観券1,600円を含む)
参加人数:1回あたり20名以上(参加人数によりガイド数が変わります)
■夜間特別拝観 概要・見どころ
京都を一望できる高台に位置し、「秋は夕暮れ」の名所としても知られる金戒光明寺。
特に秋の日没直前は、京都の町や山々が赤く染まった幻想的な光景をお楽しみいただくことができます。
普段非公開の大方丈と紅葉に彩られた回遊式庭園「紫雲の庭」。夜間ライトアップ。
また夕刻から、御影堂や山門・鐘楼や参道など境内をライトアップいたします。
紅葉が美しいライトアップされた「紫雲の庭」の水面に映る逆さ紅葉は必見です。
また、重要文化財「吉備観音」像や「文殊菩薩」像が安置されている御影堂では、毎夜3回邦楽の生演奏を開催いたします。お箏や篠笛など、日本古来の音色をお楽しみください。
さらに、例年ご好評いただいている通常よりも30分早く入場できる「プレミアム拝観プラン」を、今年も期間中毎日開催(ホームページより事前予約が必要)。御用達職人もしくは庭園コンシェルジュ(植彌加藤造園)の案内つきで、御影堂から庭園まで、ゆったり、贅沢に拝観することができます。
■拝観期間・時間・拝観料 <夜間拝観>
拝観期間 :2023(令和5)年11月15日(水)~12月3日(日)
拝観時間 :17:30~20:30 (最終入場 20:00)
特別拝観箇所:御影堂・大方丈・庭園
【夜間拝観・拝観料】
<御影堂・大方丈・庭園>
●個人
大人 :1,000円 小学生:500円
●団体(15名以上)
大人 :900円 小学生:450円
<プレミアム拝観(予約制)>
●個人・団体
大人 :1,500円 小学生:1,000円
※御影堂内にてお箏や篠笛など邦楽の生演奏を毎日3回実施いたします。
開始時刻…17:45~/18:30~/19:30~
<プレミアム拝観プラン>
御用達職人もしくは庭園コンシェルジュ(植彌加藤造園)のご案内付きで、
通常よりも30分早く拝観できるプランです。
※個人のみ ホームページより事前予約が必要。
開催日 :期間中毎日開催
拝観時間:17:00~(受付開始16:30~)
拝観料 :大人1,500円、小学生1,000円
<団体ツアー用、ガイド付き早め入場プラン>
※30分前に入場、京都SKY観光ガイドが約30分ご案内します。以降自由拝観
開催日 :期間中毎日開催
拝観時間:17:00~(受付開始16:30~)
拝観料 :大人1,500円、小学生1,000円
■寺院概要
名称 : 浄土宗大本山 くろ谷 金戒光明寺
所在地 : 〒606-8331 京都府京都市左京区黒谷町121
アクセス: JR京都駅から 市バス5番…「東天王町」下車 徒歩15分
地下鉄東西線蹴上駅から 徒歩30分
京阪本線「三条」駅から 市バス5番…「岡崎公園〔動物園前〕」下車徒歩15分
京阪本線「祇園四条」駅から 市バス203番…岡崎道下車 徒歩10分
自家用車 山門下コインパーキング (有料)
※駐車場73台分ございます。
※大型バスの駐車場はございません。丸太町通りにて乗下車いただきます。
※タクシーは境内までお上がりいただけます。
■拝観所要時間目安
御影堂・大方丈・庭園 約60分
御影堂・大方丈・庭園と山門 約90分
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(順不同・敬称略)
浄土宗大本山 くろ谷 金戒光明寺
〒606-8331 京都府京都市左京区黒谷町121 電話:075-771-2204
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
「甲賀の総社」油日神社 全景
「甲賀の総社」油日神社 本殿
国の史跡ともなる境内には、南北に本殿・拝殿・楼門 が一直線に並び、楼門の左右から廻かい廊ろうが延びています。廻廊が取り付く中世の神社建築は、滋賀県内でも当社以外にありません。いずれも規模が大きく意匠に優れ質も高いもので、中世の神社景観を今に伝える貴重な文化財です。
「甲賀の総社」油日神社
由来
油日神社は、南鈴鹿の霊峰油日岳の麓に鎮座し、明治時代までは「油日大明神」と称しました。
油日岳山頂の岳神社
『 日本三代実録( にほんさんだいじつろく) 』によれば、平安時代の 元慶( がんぎょう)元年(877)に「油日神」が従五位下を授かっており、これ以前から存在することがわかる古社です。古くは油日岳を神体山としたとされ、山頂には今も岳神社がまつられます。
豊かな文化財と伝承
長い歴史をもつ油日神社は、社殿をはじめとした多くの文化財と、豊かな伝承に彩られます。なかでも室町時代の「油日大明神縁起」に語られる 聖徳太子( しょうとくたいし)の活躍は特色あるもので、社宝の「聖徳太子絵伝」や、太子の 本地( ほんじ)とされた 如意輪 (にょいりん)観音を表した懸仏の存在は、当時は軍神として崇められた太子への甲賀武士の信仰を伝えるものです。
油日神社の祭神
ご祭神 油日大神
東相殿 罔象女神 摂社岳神社祭神
西相殿 猿田彦神 摂社白鬚神社祭神
ご 神 徳
油日大神のみ名は記紀にも見えず、又油日の名も国内に見当らない。たゞこの地に於いてのみ千数百年の昔から、油日大神とのみ申しあげて篤い信仰がさゝげられて来たのである。油日大神はアブラのヒの大神さまであって、万有始動の根元神として諸事繁栄発展の大本を司られる大神さまである。従って古来より諸願成就の神として衆庶の尊信あつく、又油の祖神として業界の崇敬があつめられている。 猿田彦命は道案内(サキダチヒコ)の神として方除授福のご神徳高く、又罔象女命は水神として衆庶の生業に大御恵を光被まします。
油日まつり
5年ごとに行われる油日まつり
奴振(滋賀県無形民俗文化財)
油日神社に伝わる奴振は、5月1日の油日神社祭礼に5年に一度奉納されています。(滋賀県無形民俗文化財)室町から戦国にかけて、油日神社は甲賀の総社として甲賀武士の結束の中心でした。「奴振」は、その社参行列が起源と思われます。978年平安中期の記録が残っています。油日神社の「頭殿祭」には「奴振」が行われていますが、毎回選ばれる「頭殿」は祭りの主役であり「奴」はこの「頭殿」のお供であって、江戸中期に行列に加えられたと言われている。奴は「長持奴」3名と「挟箱奴」4名「毛槍奴」2名「押え」2名で構成されています。
甲賀武士の崇敬
中世になると、一帯に成長した武士の崇敬を集めました。現在の本殿造営のための奉加を記した、 明応( めいおう) 4年(1495)の「油日御造営御奉加之人数」には、杣谷を中心に190にのぼる武士や寺庵から多くの寄進がみえています。
戦国時代、上甲賀を中心とした武士は、地域の支配・運営のため同名中や郡中惣を構成しますが、油日神社はその拠り所となり、「甲賀の総社」と呼ばれ、信仰圏は広く郡域に及んだとされます。
油日祭りのうち5年に一度行われる 頭殿 (とうどう) 行事(奴振)はその歴史を伝えるもので、境内は「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして国の史跡に指定されています。
ZIPANG TOKIO 2020「甲賀忍者 軍神として崇められた聖徳太子への甲賀武士の信仰を伝える日本遺産『甲賀の総社』油日神社」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2325031
甲賀流忍術屋敷
[甲賀望月氏]
長野県の武家の名族滋野氏(分流は、真田氏等)を源流とし、平安時代に滋賀県甲賀地方を治めた九曜星を家紋とする氏族。 戦国時代には、伊賀の「服部」、甲賀の「望月」と称され、鈎の陣に活躍した望月出雲守、甲賀三郎伝説の起源とされる望月三郎に代表される甲賀流忍者の家系。
甲賀 望月家家紋「九曜紋」
九曜星に込められた意味
中央の星を八星が囲む九曜紋が満月の意味を持つ望月氏によって用いられました。 平安時代初期、貞観7年(865年)に、それまで8月29日に行っていた信濃国の貢馬の「駒牽」の儀式を、満月(望月)の日8月15日に改められた。この日に駒牽された貢馬を「望月の駒」と呼び、朝廷への貢馬の数が最も多かったのが、信濃御牧の牧監とも伝えられる滋野氏であり、信濃十六牧の筆頭「望月の駒」を継承した一族として望月の姓が与えられました。そのあと、滋野氏が分家し、望月氏、海野氏、根津氏を起こし、滋野三家として継承されていきます。
この頃、家紋は望月氏は丸に七曜、九曜紋(九曜星)、下り藤を用い、根津氏は丸に月、六連銭、丸に違い鷹の羽を、海野氏は洲浜や月輪七九曜、結び雁金、六連銭(六文銭)を用いられました。そのあと、平安時代の平将門の乱の武功のあった望月三郎兼家が、朝命により甲賀十六ケ村を贈られ赴任、甲賀望月を起こし、家紋として九曜紋(九曜星)を用いることになります。
甲賀流忍術屋敷のみどころ
甲賀流忍術屋敷には忍者の歴史を学べるだけでなく、実際に使われていた忍者屋敷の仕掛けを体験したり、触れてみたり、謎解きをしたりすることができます。 時代劇やテレビでのイメージと違う本当の忍者の姿を体感していただけ、忍者好きはもちろん歴史好きの若年層からシニア層の方まで、多くの方に楽しんでいただける施設です。
甲賀流忍術屋敷 甲賀忍者の手裏剣マニュアル
ZIPANG TOKIO 2020「日本遺産甲賀流忍者 甲賀五十三家筆頭は、平安時代に甲賀地方を治めた九曜星を家紋とする氏族」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2333938
国宝・大善寺薬師堂
本堂の中に、薬師三尊像を安置していますので「薬師堂」とも呼ばれます。この薬師堂には、弘安9年3月16日(AD1286)の刻銘があり、元寇(弘安の役)の数年後に建てられ、築730年以上にもなります。勿論山梨県では一番古い建物です。
大きさは24m四方で、5間の正面は、中側の3間は両開きの扉が付き、両外側は、上部が縦桟の連子格子になっています。両側面の正面寄りと、裏面中央には、出入り口があります。また幅広の縁側が四周を取り巻いています。上を見ると流麗な線を持つ檜皮葺きの屋根は、落ち着きを見せ、鎌倉時代の建築の力強さをよく現しています。
内部は内陣下陣に分かれ、内陣には須弥壇を設けて厨子(国宝)を置き、薬師如来をお祀りしています。その両側には日光菩薩、月光菩薩、更に十二神将を配しています。
昭和29年12月に解体復元修補が行われています。
国宝 大善寺 本堂 一棟、付属 厨子 一基 昭和30年6月22日指定
国宝・大善寺薬師如来
国宝・大善寺のご本尊である薬師如来は、病苦を除く仏として古くから信仰されてきました。本像を中心に日光菩薩像、月光菩薩像を配し、三像ともにサクラ材の一木造です。 薬師三尊像は秘仏として厨子の中に納められ、通常は拝むことは出来ません。しかし本年10月、五年に一度扉が開かれ、お姿を拝むことが出来ます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020「国宝 大善寺~秘仏 薬師三尊像 五年に一度の御開帳~10月14日(金)まで」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5003004
伊賀忍者(忍び)
伊賀忍者の故郷
伊賀とは
伊賀は、伊賀流で知られる忍者の里。 忍術はこの地で発展し、伊賀忍者は日本全国で活躍しました。 街の中央には上野城の敷地を使った上野公園があり、伊賀流忍者博物館、上野城、だんじり会館など、主要な観光スポットが集まっている。 上野公園から歩いて巡れる範囲にも、観光スポットが点在している。 伊賀の中心市街地は、17世紀初めに整備された城下町で、昔は侍が住んでいました。 現在も100年以上前に作られた、歴史的な建築や昔ながらの街並みが残っている。
街の周辺部には田園地帯が広がり、周囲は深い山々に囲まれている。 周辺部には、赤目四十八滝や青山高原など、日本の自然を満喫できるスポットがある。 ※赤目四十八滝は、たくさんの滝を歩いて巡ることができる観光地で、忍者が修行した場所だとも言われている。
伊賀は周囲を山々に囲まれた盆地である。 盆地特有の気候で、夏はとても暑く、冬はとても寒くなる(雪はほとんど降りません)。 昼夜の気温差が大きいのも特徴で、この気温差が優れた牛肉や米、日本酒ができる要因である。
伊賀市の面積は558.23k㎡で、人口は約91,000人です。 お隣の名張市(人口約78,000人)とあわせて、古くから「伊賀国(いがのくに)」と呼ばれてきた。
伊賀忍者修行の地の一つ 名張 赤目四十八滝
伊賀流忍術発祥の地 【伊賀市・名張市】
忍術
忍者は、世界中で日本をイメージする国際語となっている。
映画、テレビそしてマンガでおなじみの「忍者」や「忍術」。超人的で神秘的なイメージの強い忍者は、空を飛んだり、消えたりと、まるで忍者がスーパーマンであるかのよう、あるいは忍術が格闘技であるかのように、間違って解釈されている。
戦乱の時代に必要とされ、発達した忍術は、武術や謀略、破壊工作なども当然含まれますが、心理学や呪術、占術を利用して人間の心理をあやつり、また薬学、医学、天文学など生きるための知識と、人間の能力を最大限に引き出す技術の集大成が本来の忍術なのです。
忍者、忍術とは
封建時代の日本では、戦乱が頻繁に起きていました。その当時、忍者は主に情報収集をおこなうスパイとして雇われ、敵対勢力の動きを察知するという任務を果たしていました。彼らはしばしば、敵を混乱させ、その勢力を低下させるという使命をも帯びていました。「忍者」とは、忍術を駆使してこれらの目的を達成する者たちに対する呼び名でした。
忍術では、武力を行使するのではなく、知力を使った戦術に重きが置かれる。
忍術のある分野においては、敵の心理状態をあやつるために、呪術や占術、心理学、そして超心理学に精通することが求められました。また別の分野においては、自然を熟知して任務を遂行しやすくするために、天文学や薬草などの知識が求められました。
特に、この地域では、呪術と火薬の知識に秀でていました。忍術とは、戦闘のみに限られたものではありませんでした。
歴史を通じて発展した忍術の流派はいろいろありましたが、その中でも伊賀流(三重県伊賀市・名張市)と甲賀流(滋賀県甲賀市)の忍術は、その起源が同じで、もっとも優れた忍術といわれている。
イメージ 役の行者
忍術の歴史は
忍術の歴史は、紀元前4000年頃に古代インド文化が中国大陸に伝えられ、そして西暦6世紀頃に、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった「兵法」に求められる。大陸的な兵法は日本で山岳的な兵法へと発展し、今日知られるような忍術が完成しました。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG TOKIO 2020「忍術は紀元前4000年頃発祥 日本で山岳的な兵法へと発展 今、世界が注目する日本遺産(壱の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3019963
千賀地城址の服部半蔵と藤堂采女生誕地の碑
服部半蔵
三大上忍の一人。服部半蔵は伊賀忍者の代名詞であるが、半蔵保長は上野の予野の旧名を姓として千賀地半三保長ともいう。
半蔵正成は保長の子で、早くから伊賀を出て家康に仕えた伊賀忍者の頭領として有名である。 天正10年(1582)の神君伊賀越では、半蔵正成は伊賀者200人と供に家康を助けたとある。その後、八千石の旗本となり与力30騎、伊賀同心200人の頭領として活躍し世に鬼半蔵と呼ばれた。
『寛政重修譜家緒』に、「三河国西郡宇土城夜討の時正成16才にして伊賀の忍びの者6,70人を率い城内に忍び込み戦功を励ます」とある。忍術秘伝書『忍秘伝』は、初代服部半蔵保長が著して、正成に授けたと伝わる。
忍の活動
武器
諜報活動のためのアイテムや、武器、服装など、忍者が使った道具の紹介。
伊賀忍者が使用した様々な武器
伊賀忍術
変装術、密偵術、剣術、火術、呪術、薬学、天文学など忍びの技術を紹介します。
忍術には25流派あるといわれているが、その中で伊賀流と甲賀流が群を抜いて優れている
忍術には25流派あるといわれているが、その中で伊賀流と甲賀流が群を抜いて優れている。伊賀と甲賀は隣接していて、その術技もほとんど同じだが、伊賀は甲賀に比べて特に呪術に秀でていた。
伊賀で呪術が発達したのは、伊賀が盆地で古代から都からの亡命者が多かったからである。古代大和朝廷の呪術をつかさどっていた物部氏や、奇術や軽業などの諸芸を得意とした服部氏などが伊賀に住みつき、呪術を伝えたと考えられる。
忍術は、戦乱の世に必要とされて発達したため、武術、謀略、破壊工作などが含まれるが、心理学、薬学、医学、天文学、呪術、占術など、戦いに直接必要でないものが圧倒的に多い。忍術は、まさに生きるための知恵と技術の集大成であったのである。
秘密文字(忍者文字)
忍者は、漢字が伝来する以前に存在した文字を秘密文字として、仲間同士の連絡に使った
伊賀 秘密文字(忍者文字)
神代文字は、漢字が伝来する以前に日本に存在した文字。 そしてそれは縄を結んで作り出した「結縄」から生まれたとの説もある。
忍者が活躍した戦国時代には廃れ、解読できる者もいないこの文字を、秘密文字として仲間同士の連絡に使った忍びの知識の深さには驚かされる。
五色米
忍者の仲間同士だけにわかる伝達法として、米を染めその組合せで暗号を作った。
忍者たちは青、黄、赤、黒、紫に染めた米粒の組合せで暗号にしていました。 野球のサインのようにそのつど決めていたのかもしれません。
ZIPANG TOKIO 2020「日本初!伊賀忍者が活躍した城郭を巡るスタンプラリー 是非ご参加を!(弐の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3054326/
忍術の歴史は、紀元前4000年頃に古代インド文化が中国大陸に伝えられ、そして西暦6世紀頃に、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった「兵法」に求められる。大陸的な兵法は日本で山岳的な兵法へと発展し、今日知られるような忍術が完成しました。
歴史を通じて発展した忍術の流派はいろいろありましたが、その中でも伊賀流(三重県伊賀市・名張市)と甲賀流(滋賀県甲賀市)の忍術は、その起源が同じで、もっとも優れた忍術といわれている。
弥勒寺廃寺
木造の役行者像
弥勒寺
鎌倉時代から室町時代に作られ、木造で162cmの伊賀で最も古くて大きい役行者像があります。他にも国指定重要文化財で、平安時代に作られた木造聖観音立像や、木造十一面観音立像も収蔵されています。
ZIPANG TOKIO 2020「日本遺産 伊賀忍者の史跡 そのⅠ (参の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3058458
「箱館御役所」としての「五稜郭」は日本最初の西洋式城郭都市だった
開港を前にした徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する「箱館奉行」を配置したが、その役所や役宅が密集した市街地にあることや港に近く寒気が厳しいなどの生活環境、並びに上陸した外国人による市街地の遊歩に伴い役所が見透かされるといった幕府の威厳の問題、そして港に至近の位置のため艦船からの標的になりやすいといった防衛上の危機感などの理由から、役所、役宅ともに内陸の平坦地へ移転させることとなった。
移転に際しては、四方に土塁を巡らした中に役所を建設し、附近の河川から水流を引き込み周囲を水堀で囲む形態が計画された。
【五稜郭の歴史】幕末の見果てぬ夢の象徴ー五稜郭
函館 五稜郭 春
五稜郭 - 箱館御役所の誕生
「五稜郭」とは、近世西洋式城郭の特徴的な構造「稜堡」に学び、
星形五稜にした通称である
これは、近世ヨーロッパに於いて銃や大砲などの火器の発達に対抗するために考案された土木技術で、武田は、フランス軍人からの助言に従い、さらに独自の工夫も加えたものである。
明治新政府軍の反撃 - 終戦
脱走軍は箱館在留の諸外国の領事に対して、従来通りの権益を認めるなどの懐柔政策で対外関係を維持するとともに、英仏軍艦の艦長に託して、蝦夷地開拓の請願書を新政府へ届けたが遂に受け入れられることはなかった。
一方、上等士官以上の者による入札で総裁以下の役職を選出、12月15日には蝦夷地領有の宣言が為され、暫定的な軍政機構が整えられた。
しかし、当時最強の軍艦であった「開陽」の沈没による戦力低下により、旧幕府脱走軍は、明治新政府と対等な勢力である「交戦団体」とは認められなくなり、諸外国は「局外中立」を撤廃した。
幕府脱走軍は、新政府に対する単なる叛徒として、征討の対象となったのである。新政府軍は、局外中立の撤廃に伴いアメリカから引き渡された軍艦「甲鉄」を旗艦として征討軍を編成、明治2年(1869)3月9日、蝦夷地へ向けて品川沖から艦隊が出航した。
蝦夷地への北上途中、宮古湾での脱走軍による「甲鉄」奪取のための奇襲作戦を撃退した新政府軍は、4月9日、日本海側の乙部に上陸を開始、瞬く間に江差を奪還、三方向から箱館へ向かった。
圧倒的な戦力で迫る新政府軍により脱走軍守備隊が次々撃破されていく中、江差から箱館への最短経路である江差山道の山中に布陣した土方歳三の指揮する部隊は、増強される政府軍を激しい銃撃で撃退し続けたが、残る二方面の脱走軍が敗走したため、退路を断たれることを恐れた五稜郭本部からの命令で撤退した。
5月11日、箱館と五稜郭を残すのみとなった脱走軍に対して、新政府軍は総攻撃を開始した。箱館山の裏側の断崖を登攀した奇襲部隊が箱館市街地を一気に奪還。箱館の北方山手からと箱館湾の海岸沿いには、軍艦からの艦砲射撃の支援を受けた新政府軍の陸軍本隊が進み、五稜郭に迫った。
陸軍副総裁として土方歳三は、市街地奪還のために一隊を率いて五稜郭を出撃したが、市街地の境界を突破する際に銃撃を受けて絶命した。また、海上でも両軍の軍艦による砲撃戦が繰り広げられ、波の静かな天然の良港である箱館港が紅蓮の炎に包まれた。
脱走軍の海軍が全滅して後、新政府軍は軍艦を港内の奥深くへ進入させ、「甲鉄」の七十斤アームストロング砲による五稜郭への艦砲射撃を開始、脱走軍の本部に多くの被害を与え戦意を奪う一方で、箱館病院の医師・高松凌雲を仲介として脱走軍に降伏を勧告した。
箱館の住民にも大きな被害を出す中、新政府軍に味方をする住民組織による脱走軍に対する破壊工作などもあり、降伏勧告にも最後まで抵抗していた「千代ヶ岱台場」の玉砕により箱館戦争の全ての戦闘は終息し、榎本武揚ら旧幕府脱走軍の首脳者は、5月17日、新政府軍の斥候所に出頭し降伏の条件を話し合った。
翌18日の早朝、五稜郭内に整列した脱走軍将兵の見送りを受けた榎本以下の幹部四名は、新政府軍の会議所へ赴き護送されていった。将兵は武装解除された上、寺院などへ収容され、箱館周辺と北海道南部、渡島半島全域を半年間にわたって戦火に包んだ箱館戦争は、旧幕府脱走軍で約800名、明治新政府軍で約300名の犠牲者を出して終結した。
徳川家臣団による蝦夷地開拓の夢は儚く潰え去り、多くの人々の命と引換えに、近代日本の基礎が造られていった。
榎本ら旧幕府脱走軍の幹部は東京へ護送され投獄されたが、明治5年(1872)には赦されて、多くは北海道開拓使への出仕を命じられた。中でも榎本武揚は、開拓使を皮切りに明治政府の要職を歴任し大臣としても活躍、日本の発展に力を尽くしていくことになる。
函館奉行所
箱館奉行所は、約150年前に五稜郭の中央に建てられた江戸幕府の役所(復元)。周囲を桜や松の木に囲まれ、和の雰囲気に満ちる。
箱館奉行所は、日本の北辺防備の拠点として設置された江戸幕府の役所である。
当初は箱館山の麓に置かれましたが、内陸の地に移転が計画され、その外堀となる五稜郭と共に1864年(元治元年)に完成しました。 1868年(明治元年)戊辰戦争最後の戦いとなる箱館戦争の舞台となり、旧幕府脱走軍降伏2年後の1871年(明治4年)に解体されました。 地上に存在した期間はわずか7年。 2010年(平成22年)、可能な限り建築当時の材料・工法を使用し、庁舎の1/3の規模を復元。幕末から明治維新にかけてのピンと張りつめた時代の空気が感じられる貴重な歴史遺産の空間である。
ZIPANG-2 TOKIO 2020「函館市 西洋建築大博覧会(Webサイト)特別編その2【五稜郭】」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4751663
後鳥羽院像 伝藤原信実筆、水無瀬神宮 所蔵
12世紀における院政の展開、1180年代の内乱、そして東国での鎌倉幕府の樹立を経て、13世紀初頭には、後鳥羽上皇が列島を統べる体制が成立する。後鳥羽上皇は、勅撰集『新古今和歌集』に結実する和歌をはじめとして、多芸多能の帝王だった。
しかし承久3年(1221)、前代未聞の事件「承久の乱」が起こり、後鳥羽上皇が北条氏率いる鎌倉御家人に合戦で敗れ、隠岐に流された。この承久の乱を機に、鎌倉幕府の優位のもとで公家と武家が並存する時代となったが、やがてその体制にも終止符が打たれ、南北朝の内乱が展開することとなった。
後鳥羽上皇を祀っている「隠岐神社」
承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は、亡くなるまで19年間を隠岐で過ごしました。
太刀(菊紋)名物 菊一文字 徳川美術館 所蔵
茎に菊紋のある太刀は「菊御作(きくごさく)」と呼ばれ、後鳥羽上皇の御作と伝えられる。後鳥羽上皇は、いわゆる御番鍛冶(ごばんかじ)を定めて各地から名工を招聘し、月番で作刀させたうえ、自らも鍛造したという。本刀は菊紋がわずかに確認でき、備前国一文字風であるため「菊一文字」と呼ばれる。寛永2年(1625)に2代将軍秀忠三男の忠長から尾張家初代義直が譲り受けた。その後、尾張家5代五郎太(1711〜13)の時代に父・吉通 の建中寺廟に奉納され、明治時代に尾張家へ戻された。
【鎌倉時代 13世紀】刃長72.5 反り2.3 茎長13.3
後鳥羽院は刀剣の文化にも関わりが深いことで知られている。刀剣に情熱を注がれた理由として、三種の神器の一つ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」にまつわるエピソードが有名である。
後鳥羽院のもとに仕えた刀匠は、後に「御番鍛冶」と称されるようになった。院自らも作刀をなされたとの伝えもあるほどで、刀の価値や刀匠の地位を高めたのはもちろんのこと、自らの手で最高のものを作り出そうと先頭に立つお姿が日本の精神文化に影響を与えたとされている。
その由緒により、隠岐神社創建時、昭和の名匠から「昭和御番鍛冶」を選定し、院を祀る神前に相応しい昭和の名刀が奉納された。なお、その刀剣は海士町後鳥羽院資料館※に展示されている。
※海士町後鳥羽院資料館
海士町後鳥羽院資料館は、隠岐神社の前にある。
二階建ての館内に後鳥羽天皇ゆかりの品々などを中心に、考古資料や民俗資料など貴重な資料が展示されて、周囲には後鳥羽天皇行在所跡や御火葬塚、その墓守を代々務める村上家などが隣接している。
住所 島根県隠岐郡海士町海士1521-1 電話 08514-2-1470
営業時間 9:00~17:00(3月~11月)
ZIPANG-5 TOKIO 2020後鳥羽院に由緒がある伝承と文化「隠岐諸島の一つ海士町(あまちょう)[1]」
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18174785
イメージ 石川県 日本海陽
現代、日本海側は『裏日本』とか『鄙(ひな)の国』などと言われていますが、遠い昔、弥生時代(紀元前4~500年から 紀元後300年くらい)は日本海側が『表日本』であり、日本海を通じて様々な交流が行われていました。
天平5年(733)に編纂された『出雲国風土記』の仁多郡(現在の奥出雲町にあたる)の条に三所(みところ)郷(のさと)・布勢(ふせの)郷(さと)・三沢(みざわの)郷(さと)・横(よこ)田(たの)郷(さと)あわせて4郷が所在し、「諸郷(もろもろのさと)より出(いだ)すところの鉄(まがね)堅(かた)くして、尤(もっと)も雑(くさぐさ)の具(もの)を造(つく)るに堪(た)ふ」と記しています。
絲原家のたたら製鉄を行っていた頃の住宅に併設していた高殿の風景
このことは、その当時から盛んに製鉄が行なわれていたことを示すとともに、当地方で産する鉄の優秀性を物語っています。そして、今日もなお世界で唯一“たたら製鉄”の炎があがる町として全国に周知され、その技術は国選定保存技術に選定されているのです。
歴史的に見ると、近世・近代にかけて奥出雲地域は、我が国の鉄生産の中心地として隆盛を極め、たたら製鉄で栄えた地であります。 また、松江藩の鉄政策により、櫻井(さくらい)家、絲(いと)原(はら)家、ト蔵(ぼくら)家という大鉄師(だいてつし)(たたら経営者)を産みだし、櫻井家住宅は国重要文化財に指定され、絲原家住宅は登録有形文化財に登録されるなど、鉄師頭取の佇まいを今に残しています。
長塩雪山筆「金屋子神」(部分)
その2大原料である良質な砂鉄と、豊富な木炭資源を有するこの奥出雲がその生産地として、江戸時代末期には全国の約30%を生産していました。
絲原家庭園
絲原家の出雲流庭園が国の名勝に指定!
平成30年6月15日(金)、国の文化審議会より、絲原氏庭園を新たに国の登録記念物(名勝地関係)に指定するよう答申が出されました。
ZIPANG-3 TOKIO 2020 「 松江藩大鉄師『絲原家』 とは・・・絲原記念館・登録有形文化財住宅・国名勝庭園について 【第四話】」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5855524/
※現在、2100件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。
新サイトの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/
最新の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/
最近の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/
250件ほどの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/
235件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/
200件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/
615件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
0コメント