開催日程:11月25日(土)~12月3日(日)
熊本県は2015年10月、熊本市とともに、東京都文京区・新宿区との4者間で「文化と歴史を縁とする包括連携に関する覚書」を締結し、細川家や夏目漱石、小泉八雲などの共通する文化を「縁」ととらえ、文化や観光、広報などの分野で相互に連携を図っています。この覚書に基づき、熊本地震以降、様々なご支援をいただいた両区に、これまでの御支援への感謝と熊本の“今”をお伝えするため、竹あかり等の展示を行ってきました。
今年は11月25日(土)~12月3日(日)の9日間、肥後熊本藩細川家の下屋敷跡「肥後細川庭園」(東京都文京区)にて秋の紅葉ライトアップ「ひごあかり」を開催いたします。
「秋の紅葉ライトアップ~ひごあかり~」 イベントの見どころ
「ひごあかり」は当庭園の歴史性や熊本との縁を背景に、美しい景観を作り出す池泉回遊式庭園の醍醐味を活かした秋の紅葉ライトアップです。赤や黄色に染まった紅葉が池の水面に映る美しい風景を、庭園を回りながらご覧いただけます。
また、竹に穴を開けてあかり(LEDライト等)を灯す演出「竹あかり」の展示もあわせて行われます。熊本を拠点に、全国各地でその土地の風景を活かした竹あかりを総合的にプロデュースしているユニット「CHIKAKEN(ちかけん)」によるオブジェが庭園を彩ります。熊本県からは、熊本県の営業部長兼しあわせ部長「くまモン」のロゴマークをモチーフにした竹あかりオブジェを展示します。
竹あかり イメージ
くまモンオブジェ イメージ
※共にイメージ
「秋の紅葉ライトアップ~ひごあかり~」 開催概要
開催期間:2023年11月25日(土)~12月3日(日)
点灯時間:17:30~20:30(最終入園20:00)
入園料:300円、未就学児無料 ※雨天中止、予約不要
会場住所:東京都文京区目白台1-1-22 肥後細川庭園
公式HP:https://www.higo-hosokawa.jp/
■期間中のイベント
・ ボランティアガイドツアー: 庭園の見どころをボランティアがご案内します。
日時:11月25日(土)、12月2日(土)14:00~ 30分程度
場所:松聲閣 入口付近集合
参加費:無料
・ 「肥後六花」呈茶サービス: 数量限定の熊本の和菓子とともに、呈茶を実施します。
日時: 11月25日(土)~12月3日(日)
(昼)10:00~16:00 (夜)17:30~20:30(ラストオーダー 20:00)
場所:松聲閣 喫茶「椿」
料金:1服 800円 ※ 肥後六花茶菓子は1日 50個限定
・ 熊本県観光PR展示「日本マラソンの父 金栗四三の遺品展示」、熊本市観光PR展示
場所:松聲閣1階 洋室(花菖蒲・芍薬)
関連イベント「竹灯篭づくりワークショップ」について
熊本の“竹あかり”総合プロデュースを担当しているユニット「CHIKAKEN(ちかけん)」による、竹灯篭作りのワークショップを開催します。出来上がった竹灯篭は、11月25日(土)~12月3日(日)までの間、庭園内に展示いたします。 ※ 参加者は定員に達しました。
■日程
2023年11月25日(土) ① 10:00~11:30 | ② 12:00~13:30
■会場
肥後細川庭園 正面広場
■対象年齢
小学生以上
(小学生は保護者と必ず一緒にご参加ください)
■お問い合わせ先
肥後細川庭園 松聲閣(しょうせいかく)
電話:03‐3941‐2010
天下の名城「熊本城」全景 編集局イメージ
補足~熊本県の沿革~
原始
熊本県は筑肥山地・九州山地に囲まれる一方、西側には天草灘を望む島々の存在など河川・平野・山地・海岸など地形的にも変化に富んだ地域となっている。この県下に元々いつ頃より人々が生活しはじめたかは明確には分かっていないが、県内各地の発掘により時代的にかなり早い段階より生活した痕跡が認められる。
例えば、先土器時代に属する石飛遺跡(水俣市)ではナイフ形石器や細石刃が出土しており、出土遺物としてはわずかであるが当時の人々の生活暦を知ることができよう。このころの遺跡では、他に石の本遺跡(熊本市)、曲野遺跡(宇城市)、下城遺跡(小国町)などが知られている。
時代が下った縄文時代になると遺跡の数は飛躍的に増大し、1000か所以上知られている。特に御領貝塚・阿高貝塚(熊本市)・曾畑貝塚(宇土市)などは膨大な貝の量と豊富な遺物、あるいは特徴ある土器の存在が知られ、さらにワクド石遺跡(大津町)からは出土した土器の破片に籾の痕跡が認められるなど、興味ある事例が数多く報告されている。
弥生時代になると鉄斧が出土した斉藤山遺跡(玉名市)、あるいは弥生時代後期に属する方保田東原遺跡(山鹿市)からは、近年、家形土器を始め巴形銅器など貴重な遺物が次々に発掘され、全国の注目を集めている。柳町遺跡(玉名市)には、珍しい木製の短甲や水稲耕作用木製品である鋤・鍬などがおびただしく出土している。
古代
火の国(肥の国)の成立については日本書紀や風土記に述べてあるが、諸説があり一定していない。いずれにせよ、八代郡において夜間に火が燃えている印象より火の国と記録されている。この八代郡には県内最大の野津古墳群があるが、県内各地域には多様な古墳が見られ、特に山鹿・鹿本、阿蘇、宇土市周辺には広く分布している。
古墳の中でも、特に熊本県を特徴づける遺跡として様々な文様や彩色を施した装飾古墳の存在は貴重である。
例えば、山鹿市の弁慶が穴古墳・チブサン古墳、玉名市の永安寺東古墳などがそれであり、菊池川流域には様々な意匠・幾何学的模様の装飾古墳が集中しており、当時の人々の精神生活が理解できよう。
これらの形式や大きさの異なる古墳の存在は、豪族の力を如実に示している。しかし、このような力を持った人々が、次第に中央政権との争いの中で収斂されていき、国家としての体制も徐々に整備されていったものと思われる。
さて、古代の地方行政の中心となるものには国府があるが、肥後国には益城郡に最初に置かれ、これが後に移動したとされている。この国府を中心にその下に郡・郷という単位で行政区画が存在し、律令体制と称される政治体制の中で行政運営が行われた。
九州の国府を統轄する政庁は太宰府に置かれた。
中世
古代に設けられた様々な制度は時代の変遷とともに形骸化し、特に土地制度の崩壊は顕著であり、広大な土地が次第に貴族や寺社等の有力者によって集約された。これらを一般に荘園と呼ぶが、荘園は肥後国各地にも成立した。
特に、源平の争乱を経過して有力御家人が東国より下って支配した荘園もあり、小代氏による野原荘や相良氏による人吉荘は広く知られるところである。
東国御家人に対して在地の勢力である阿蘇氏・菊池氏は、次第に阿蘇郡南郷・菊池郡を中心に支配領域を占めつつ確固とした基盤を築いており、さらに両氏につながる豪族も多数存在した。
こうして、この時代は武士の活躍した時代であったが、一方では仏教が庶民の熱心な支持を受けた時代でもあり、大きなエネルギーが交錯した様相を呈している。この頂点が、戦国時代・南北朝時代である。また、阿蘇氏・菊池氏が全国的に、注目を浴びた時代といえる。
同時に、肥後国には他国より守護大名や戦国大名が進入してきた時代でもあった。豊後国の大友氏や薩摩国の島津氏、あるいは肥前国の龍造寺氏がそれであり、肥後国は他国有力者の草刈り場となった。
結局、島津氏による肥後国支配となったが、大友氏は豊臣秀吉に援助を乞い、秀吉の九州征討へと至った。
九州を制覇した豊臣秀吉は、肥後国を佐々成政に与えたが、佐々の治世は在地の土豪による国衆一揆を引き起こした。この一揆も田中城(和水町)における攻防により終わりを告げ、結果的に肥後国は在地の土豪勢力が一掃されて新しい近世の時代を迎えた。
近世
天正16年閏5月15日付で豊臣秀吉より宛行状を拝領した加藤清正は、肥後国の内、玉名郡・山鹿郡・山本郡・飽田郡・詫摩郡・菊池郡・合志郡・阿蘇郡・葦北郡の19万4916石を支配した。この中には南に位置する葦北郡があるが、肥後国全体から見ると概ね北半分に当たる。
一方、葦北郡を除いて南側の益城郡・宇土郡・八代郡・天草郡の14万数千石を支配したのが小西行長であった。
球磨郡は鎌倉時代以来相良氏による支配であったが、秀吉よりそのまま安堵された。天草郡は五人衆と呼ばれる在地豪族の支配であるが、小西の管理下にある特殊な形態の支配といえよう。
しかし、慶長5年の関ヶ原合戦で西軍に与した小西は敗れ、小西の支配地は加藤へと替わる。のち、加藤は天草郡と豊後国の鶴崎・野津原などの交換願いを幕府に出したことにより天草郡は天領となり、加藤の支配領域が確定した。ここに一般に称される54万石の成立をみた。
なお、慶長9年から10年前後の肥後国絵図があるが、現在の宮崎県に属する米良村が肥後国に属するなど当時の肥後国範疇が明確になっている。
加藤の政治は、肥後国の政治・経済や宗教政策に大きな基礎を作ったといえる。特に熊本城を中心とする城下町プランは都市景観や空間を考慮されており、今後の都市計画を考える上でないがしろにできない側面を持っている。
また、土木行政については県内各地で加藤神社の存在を見て分かるとおり大きな足跡を残している。ただ、一方では加藤の干拓や河川改修等について疑問点を投げかけられているが、当時の検地帳の分析から農業生産の増大があったことは紛れもない事実である。
土木行政に関わる膨大な資金の出所は知られていないが、海外貿易によるところが大であったようで、賤ケ岳の戦や文禄・慶長の役で知られる勇猛果敢な武士というより経済戦略家という面も強い。
清正没後、遺児忠広の時代に加藤家は取り潰され、忠広は出羽庄内へ配流、加藤家による肥後国支配は終わる。
加藤家の後に寛永9年12月9日に豊前国より入国した細川家は、信長・秀吉・家康時代を稀代の情報収集能力で切り抜けた大名であり、細川忠利以来肥後国熊本藩を200年以上にわたって治めることになる。
入国早々より検地の一種である地撫で生産力を把握し、行政制度を完備した。
五ケ町制度では町の商工業の統制を図る一方、御郡方支配の骨格をなす手永制度は肥後国に入国する前の豊前国小倉時代より見られるが、村を支配する制度としては独特なものといえよう。
一般に村人に対する年貢や負担は村単位であるが、熊本藩では手永の持つ運営や権限が強く、手永の長である惣庄屋は御郡方支配の重要な役職であった。
初期の藩政は様々な問題を抱えながらも順調に推移した。その後、中期の宝暦の改革と呼ばれる行政改革や、財政改革で新規建て直しを図るが、商品の流通による貨幣経済の浸透、あるいは熊本町や郡部農村での身分分解で次第に行き詰まり、幕藩体制そのものが本来内包している自己矛盾により崩壊していった。
近代
明治新政府の成立により新しい政治体制が発足したが、行政・財政をはじめとして様々な分野において近代化がなされた。熊本県でもそれを受けて大きな変化を遂げた。
まず明治2年6月に版籍奉還で熊本藩・人吉藩が成立し、細川韶邦・相良頼基がそれぞれの知藩事となる一方、天草郡・五箇庄は長崎府(後に県)の管轄となった。明治3年、手永を郷に庄屋を里正とし、さらに明治4年7月には
廃藩置県で熊本藩は熊本県に、人吉藩は人吉県となった。同年11月には熊本県が二つに分かれて熊本県と八代県が成
立し天草郡・五箇庄が八代県に編入、同5年には熊本県は白川県と改称、この時期白川県と八代県が並立する。
同6年八代県が白川県に併合、同9年には白川県が熊本県になるなどめまぐるしく変化、現在の行政区画が成立した。
この間、明治政府は地方行政制度にかかわる法律等を制定したが、県内も明治7年には大小区制が制定された。「白川県下区画便覧」によると飽田郡と熊本町を第1大区とし、以下、郡を整理し第16大区まで制定した。
このころ町村合併も進んだが、自然村を中心とした近世の村の成立と異なり、人為的な形になったためにかなりの年数を必要とした。
明治11年には新三法と呼ばれる「郡区町村編成法」「府県会規則」「地方税規則」が制定され、翌年にかけて地方行政制度が次第に整備された。特に「郡区町村編成法」での県内は熊本区と飽田郡・託麻郡、山鹿郡・山本郡等15の郡、185の町、1245の村、戸数は19万9182戸を数えた。
この後、明治21年4月25日市制・町村制や明治23年の府県制・郡制の制度公布となり郡制自体は大正12年に廃止されたが、熊本区は市制・町村制という制度の中で、翌年熊本市として成立した。
このように、明治から大正にかけて様々な制度が整っていった。昭和初期には制度の大きな変更はなかったが、昭和15年に八代市、同17年に人吉市、荒尾市が相次いで成立した。
現代
戦後の混乱期より次第に日本全体の秩序が回復し、行政制度も一段と整備された。昭和28年9月1日町村合併促進法が公布されたが、熊本県内では昭和25年10月段階で市5、町41、村274であった。
これが、玉名町・本渡町・山鹿町・牛深町を中心にそれぞれ玉名市・本渡市・山鹿市・牛深市が成立、昭和31年9月段階では市9、町37、村71の計117であった。さらに平成3年2月1日に熊本市に飽託郡の飽田町・北部町・天明町・河内町が合併したことにより、11市、62町、21村の合計94の行政区画となる。
その後、平成11年8月の国の「市町村合併推進についての指針」を踏まえ、平成12年3月に熊本県合併推進要綱を策定してからは、県内各地域において市町村合併の気運が高まり、平成15年4月にあさぎり町が誕生し、平成16年には上天草市、美里町、平成17年には八代市、玉名市、山鹿市、菊池市、宇城市、阿蘇市、南阿蘇村、山都町、氷川町、芦北町、平成18年には天草市、合志市、和水町が誕生した。さらに、平成20年10月に下益城郡富合町が、平成22年3月には同郡城南町及び鹿本郡植木町が熊本市へ編入合併し、平成22年3月末時点で14市23町8村の45団体となっている。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」明和町観光大使
石川県 いしかわ観光特使
協力(敬称略)
熊本県
熊本県熊本市中央区水前寺6丁目18−1 電話:096-383-1111
紅山子(こうざんし)
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アーカイブ リンク記事をご覧ください。
司馬遼太郎はこの地を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と記しています。
市房湖大噴水
市房湖水から吹き上がる、高さ80メートルの大噴水。噴水が風になびき、虹ができることもあります。 噴出中に桟橋を渡り湖面まで下りると、水しぶきを受けるほど間近で噴水を見ることができます。球磨郡水上村湯山
市房山(いちふさやま) 九州山地南部の主峰
標高1722mの市房山は、昔から「お嶽さん(おたけさん)」として人吉球磨地方の人々に崇められています。晴れた日には、頂上から周の山々の紅葉を見下ろすことができます。四合目の市房神社まで点在する樹齢1000年といわれる巨大な市房杉に圧倒されます。
球磨郡水上村湯山
地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語る文化財「日本遺産」。
文化庁では、地域の風土に根ざした世代を超えて受け継がれている伝承や風習など、魅力ある“ストーリー”を持つ地域を「日本遺産」として認定しています。そして九州・熊本にも、古くから地域に根ざす、日本の文化と伝統を伝える“ストーリー”があります。
本号では、世界に誇るくまもとの“日本遺産”を徹底解説。「日本遺産」の第1号として認定された、相良700年が生んだ保守と進取の文化が残る「人吉球磨地域」と、昨年新たに「日本遺産」に登録された“石工の郷”と呼ばれる「八代地域」。2つの「日本遺産」の魅力に迫ります。
【スポット❶】
国内最南端の国宝建築物「青井阿蘇神社(あおいあそじんじゃ)」
大同元年(806)創建と言われる神社。現在の社殿は相良長毎により、慶長15~18年(1610~1613)にかけ造営されたもので、2008年には、本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門が国宝に指定されました。
建造物の国宝指定は九州で55年ぶり5ヶ所目で、国内で最南端の国宝建築物。県内に現存する文化財の国宝指定は初めてです。豪雨により、一部浸水・冠水の被害を受けたものの、着実に復旧に向けて前進している、人吉球磨エリアの復興のシンボル的存在です。
【スポット❷】
日本三大急流を楽しむ、100年以上の歴史を持つ「球磨川くだり」
熊本県内最大の川であり、全国でも最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つでもある球磨川。球磨川くだりの歴史は100年以上と言われ、西郷隆盛も西南の役で秘かに熊本に入るために球磨川を下ったと伝えられています。
また、昭和7年には与謝野鉄幹・晶子夫妻も人吉を訪れ、球磨川くだりを楽しんだとされ、歴史的な著名人も多く楽しんだことで知られる名所です。現在も、木船に乗って下る「球磨川くだり」や、ゴム製のボートで激流を下る「球磨川ラフティング」を楽しむことができます。
「人吉球磨」のストーリー
人吉球磨の領主相良氏は、険しい九州山地に囲まれた地の利を生かして外敵の侵入を拒み、日本史上稀な「相良700年」と称される長きにわたる統治を行いました。
その中で領主から民衆までが一体となったまちづくりの精神が形成され、社寺や仏像群、神楽等をともに信仰し、楽しみ、守る文化が育まれました。 同時に進取の精神をもってしたたかに外来の文化を吸収し、独自の食文化や遊戯、交通網が整えられました。
保守と進取、双方の精神から昇華された文化の証が集中して現存している地域はほかになく、日本文化の縮図を今に見ることができる地域であり、司馬遼太郎はこの地を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と記しています。
■ 「人吉球磨」の日本遺産を巡る、注目スポット&遊び文化
「人吉球磨」の長く伝わる歴史を体感することができる、必ず行くべき注目スポットと地域に根付くローカルな遊び文化をご紹介します。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 (その1)
世界に誇る熊本の “日本遺産” 領主一族が“700年”統治し続けた「人吉球磨」の魅力に迫る!
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/21859385
八代 編
石の匠たちの物語・・・
熊本 通潤橋
通潤橋
嘉永7年(1854年)、水不足に悩む白糸台地に水を送るため、矢部の惣庄屋・布田保之助によって造られた日本最大のアーチ式水道橋です。 水路の長さ126m、橋の長さ75.6m、橋の幅6.3m、橋の高さ20.2m、アーチの半径27.6m。約6km離れた笹原川の上流から水を引き、水路の総延長約30km、灌漑面積は約100haにも及びます。一昼夜で15,000㎡の水を送り、水田を潤す力を備えています。1960年(昭和35年)に国の重要文化財に指定され、八朔祭り※の時に行われる放水は有名です。
八朔祭り
熊本 八代 八朔祭(山都町)
八朔祭とは山都の三大祭り(八朔祭り、火伏地蔵祭、文楽の里まつり)の一つになります。
巨大な「大造り物」の引き廻しで知られる『八朔祭』。農民の思いや、町衆によって始まったこの祭は、今でも地域の豊かさを伝える秋の風物詩です。野生に自生する植物を材料とする「大造り物」の迫力は圧巻です。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 世界に誇る熊本の “日本遺産” 領主一族が“700年”統治し続けた「人吉球磨」と“石工の郷”「八代」の魅力に迫る(その2)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/21870682
金沢の四季
金沢の冬「特別名勝 兼六園」
〜音も凍てつく雪庭の 彼方に聳ゆる雪吊りに手を合わす古老の人あり〜
眼を凝らせば、忽ちかき消えたる残像に ふと目病みし我が幽身を覚えたり。
(詳細は本文にて・・・)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 「金沢の歴史的風致と特別名勝 『兼六園』」
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7443318
※現在、2150件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。
新サイトの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/
最新の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/
最近の記事をご覧いただけます。
ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/
250件ほどの記事をご覧いただけます。
ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/
235件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/
200件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/
615件ほどの掲載記事をご覧いただけます。
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